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【2019年11月】熊野古道中辺路&大峯奥駈道縦走についての記録

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2019年11月、熊野古道中辺路と大峰奥駈道の縦走に出掛けてきました。この記事ではその場所についての簡単な説明、記録などを書き留めたいと思います。

目次

熊野古道中辺路とは

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先ず熊野古道とは、熊野三山熊野速玉大社、熊野那智大社熊野本宮大社)と各方面を結ぶ、熊野詣の参詣道を始めとした古い道の総称を指します。現在でもなお山間部を中心に古来よりの石畳の敷かれた道が残されている史跡であり、00年代の始めに『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産認定されている、日本人よりもむしろ外国人の方に人気のスポットです。

熊野古道にも幾つかありますが、内訳については、畿内から田辺までに至る紀伊路高野山から熊野本宮大社へと至る小辺路、田辺から熊野本宮大社熊野那智大社を経て熊野速玉大社に至る中辺路、田辺から沿岸部を周り熊野那智大社に至る大辺路伊勢神宮から熊野三山それぞれに至る伊勢路、そして吉野から大峰山脈を経て熊野本宮大社に至る大峯奥駈道などがあります。

中辺路については特に那智付近が著名な観光地である為、他よりもアクセスしやすく整備の行き届いた区間です。特にその入口の大門坂那智観光のついでに立ち寄れるというお手軽さもあり、普段から賑わってます。私が今回歩いた熊野那智大社熊野本宮大社区間自体ついてもそこまで長くはないコースなので、熊野古道歩きの入門には最適でしょう。

大峯奥駈道とは

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大峯奥駈道とは、熊野本宮大社から幾多もの山々を経て吉野まで向かうという壮大な縦走路です。

中辺路の項でも書いたように、こちらも広義的には熊野古道に入ります。ただし中辺路を始めとした他の熊野古道が熊野詣の為に整備された参詣道という位置付けであるものに対し、こちらは修験道、即ち役小角役行者)が修行用に開いた道だったりと、成り立ちも目的も意味合いも他とは全くの別物だったりします。

道自体が今もなお修験道における修行の場(行場)なので、他の熊野古道と違い山脈の尾根を辿っていくという敢えて過酷な道筋が取られており、踏破するには4~6日程度掛かり、それなり以上の体力が必要です。しかし現在では全体を通してよく整備されており危険な箇所も少ない事から人気のトレッキングコースとして知られており、全国から体力が有り余ってる方がやってきます。

ちなみに本宮→吉野と進む事を順峯、吉野→本宮は逆峯と呼ばれています。発祥は順峯であるものの、江戸から明治にかけて熊野詣の習慣が廃れた事もあって、現在では吉野をスタートする逆峯が主流となっています……ただし、それはあくまで修験道においての話。登山するだけならばどちらでも構わないです。好きな方からどうぞ。

それと一つ。当たり前ですが、行程が長いので、一度に全縦走する人ばかりではなく幾つか回数を分けて登山する人の方が多いです。その辺はお遍路で言う区切り打ちなんかと似ていますね。

修験道においての奥駈道

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前述の通り奥駈道は行場なので、山上ヶ岳大峯山寺における5月から9月までの開山期間には現役の修業の場として使われており、そうした時期に行くと多くの修験者の方々がいらっしゃいます。多くは山上ヶ岳に逗まり、近場にある行場にて各々行を行いますが順峯、逆峯と奥駈道を縦走される方も決して少なくはありません。

順峯、逆峯のルーツについてですが、古来は順峯は天台宗逆峯は真言宗が主導として広めていました。が、江戸以降に南奥駈道が廃れてしまった事により、どちらも逆峯を辿り、途中太古ノ辻にて尾根を外れて前鬼に下るというコースが主流となりました。

さて、その長い道中には靡(なびき)と呼ばれる場所が幾つもあります。熊野本宮大社の上三社の一つ、第三殿証誠殿から始まり、吉野の街から下った吉野川の畔、六田にある柳の渡しまで、七十五箇所にも及ぶ靡があります……東海道五十三次ならぬ大峯奥駈道七十五靡ですね。

参考資料:大峰山七十五靡図新宮市教育委員会文化振興課、熊野学のページより)

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修験者の方はその靡にて各々行を行い、碑伝(ひで)という木札を修行の証として奉納するというのがクラシックな修行のスタイルとされており、現在でも靡に行くと写真のように沢山の碑伝が残されています。

太古ノ辻以北の区間について

長い奥駈道ですが便宜上、釈迦ヶ岳南の太古ノ辻から南北に二分されます。以南は南奥駈道と呼ばれますが、対する北側は北奥駈道とは呼ばれません。前述の通り、江戸以降は太古ノ辻から前鬼に下るコースが一般的になり、それに伴いメインと南側とで切り分けられた為です。

故に靡の数も南側よりも多いです。大峰山地の主峰である弥山及び最高峰の八経ヶ岳山上ヶ岳釈迦ヶ岳などもこちら側に属しており、また大峰山においての修験道の中心である大峯山寺もある事から、現在でも南側に比べるとずっと流行っています。

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また、大峯山寺では教義に基づき、山上ヶ岳周辺において今もなお厳格な女人禁制が敷かれています……つまり、女性の方は奥駈道を完走できず、女人結界のある五番関から阿弥陀ヶ森の分岐までの区間は何かしらの方法で迂回する必要があるという事です。

無論不平を感じる女性の方も多いようで、中には人が少ない時期を選んで強行突破したり、男装して凌いだりする豪胆な人も居るみたいですが……千年以上続く伝統を守るべきか、男女共同参画に重きを置くべきか、難しい問題です(当たり障りのない事を言っておく)。

南北の境界と前鬼集落

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今でこそ太古ノ辻が南北の境とされていますが、元来は釈迦ヶ岳から東側にある両峯分け(両部分けとも書く)がその境であり、北側は金剛界、南側は胎蔵界と呼ばれて区分されていました(両界曼荼羅にちなんだものと思われます)。

それがどうして後年になり太古ノ辻へと移ったのか。おそらくは前鬼に下る人の流れが形成された江戸に入って、尾根から下るポイントとなった太古ノ辻が実質的な南北の境として見做されるようになったからと思われます。

さて、太古ノ辻から前鬼に下るコースが主流となったという事は、前鬼は本宮に代わり吉野に対する南側の拠点になった訳ですからその時代は大いに栄えました。前鬼付近に靡が多いのも江戸時代、前鬼を拠点にして日帰りで修行のできる行場が沢山設けられた名残との事です。いつの時代もコンビニエンスを求めるのは変わりませんね。

太古ノ辻以南の区間について(南奥駈道)

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比較的いつの時代も賑わっていた太古ノ辻以北ですが、対する南側は水場の乏しさ江戸期の熊野詣の衰退などが原因となり早い内廃れてしまいました。

現在においても依然として水場が少なかったり部分的に破線コースに指定されていたり展望が良くなかったりする事で北側と比べるとあまり人気はありませんが、昭和後期、新宮市を拠点とした山岳会による熱心な整備活動により、歩きやすさについては北側と比べても遜色なくなっています。いち登山者として頭の下がる思いですね。

修験道においても、那智山青岸渡寺が近年になって中世スタイルの本宮発の順峯を復興させたりしており、南奥駈道まで足を伸ばす修験者の方は増加傾向にあるらしいです。

実際の登山記録

今回は上記のコースで歩きました。

熊野古道中辺路&大峯奥駈道縦走 登山口までの道程(日本酒調達、高田本山専修寺、新宮観光など)

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まず今回の山行のスタート地点となる那智駅までのアクセスです。かなりの長距離移動、真っ直ぐ向かうのもつまらないと思い、途中登山用の日本酒を調達したり、高田本山専修寺、熊野速玉大社、新宮城(丹鶴城)などを観光したりと、色々寄り道しながら向かう。まあこの部分だけ言えば普通の旅行ですね。平然と野宿している事を抜きにすれば。

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熊野古道中辺路その1(那智駅→大門坂→熊野那智大社→那智高原→地蔵茶屋跡)

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初日は昼前頃の出発、那智駅裏の海岸から歩き始めました。道中、那智の滝那智大社青岸渡寺などベタな観光地を経由しながら熊野古道中辺路を進む。この日は土曜日という事もあって那智山近辺は中々の賑わい。しかし大雲取越区間に一歩入り込むと途端に観光客の姿は消え、たまに外国人観光客とすれ違う程度となり、静謐な熊野古道の道筋が続いていた。地蔵茶屋跡でのテント泊も一人きりと、初日から孤独な夜を過ごす。

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熊野古道中辺路その2(地蔵茶屋跡→小口→小雲取越→熊野本宮大社→七越峰)

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未明より大雲取越、そして小口からは小雲取越をひたすら進み熊野本宮大社に向かう。慣れない大荷物の重量に苦しみながらも、百間ぐらを始めとした好展望に癒やされたりしながらなんとか下山。そして日曜日で賑わう観光客に紛れながら大斎原より熊野川を渡渉し、いよいよ長大な大峯奥駈道へ第一歩を踏み入れる。一歩踏み入れた地点、七越峰に登頂した所でこの日は終了。

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大峯奥駈道その1(七越峰→大黒天神岳→五大尊岳→大森山→玉置山→蜘蛛ノ口)

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遂に足を踏み込んだ大峯奥駈道。初っ端から大黒天神岳五大尊岳などのエグいアップダウンの洗礼を受け、着実に疲弊を重ねながらも玉置神社へ。玉置山の山頂近くに位置する、山奥の不思議な神社。上り下りの辛い道中から縁遠く、ぽんと異空間に放り出されたかのようで不思議な感じを覚える。奥駈道のオアシスと言った所か。駐車場の売店でうどんを食べたりしていると一転して急ぐ気持ちが薄れてしまい、この日は蜘蛛ノ口の分岐にて幕営

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大峯奥駈道その2(蜘蛛ノ口→香精山→地蔵岳→笠捨山→行仙岳→持経ノ宿→証誠無漏岳)

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この日は南奥駈道の区間でも最大の難所である地蔵岳前後の鎖場を越えていく。とは言え、意気込んできたからか意外と大した事なかったり。笠捨山まで登ると難所を越えたご褒美とも言えるような好展望に安堵。しかし釈迦ヶ岳やその先の山々の遠さを見ると、まだまだ遠き道のりに見える。つかの間の休息に過ぎない事を自覚し、この日は少しでも先に進んでおこうと持経の宿の先の証誠無漏岳にてこの日はテントを張る。

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大峯奥駈道その3(証誠無漏岳→天狗山→大日岳→釈迦ヶ岳→楊枝ヶ宿→迷平)

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涅槃岳、天狗山と、前二日の険阻な道筋とは打って変わってひたすら長閑な笹原を歩く。天気についても申し分ない雲ひとつ無い快晴。南北奥駈道の境である太古ノ辻を越えて大日岳のクライミングを楽しんだ後は、遠目から見えていた釈迦ヶ岳に登る。ここから弥山までは核心部。しかし翌日の天気が悪いと判明するや否や、途端に足が鉛のように重くなる。調子が良ければ弥山まで行こうと思ったものの、後半は気が入らずその手前の鞍部の迷平にてテントを張る事に。

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大峯奥駈道その4(迷平→明星ヶ岳→八経ヶ岳→弥山)

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朝っぱらからテントに強風と散弾のような雨が打ち付ける。しかし翌日は晴天の予報。こんな日は一切動きたくない。二度寝するに限る。しかし丸一日停滞というというのも気が滅入ってくる。ならば少しだけ移動をという事で大荒れの中、弥山小屋まで向かう事に。最高峰の八経ヶ岳を通り過ぎるも視界はゼロ。弥山到着時点でもガスは依然として濃いままで、本当に翌日回復するのかと心配になる。

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大峯奥駈道その5(弥山→八経ヶ岳→行者還岳→七曜岳→大普賢岳→小笹ノ宿)

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テントにびっしり霜が張り、革靴が履けなくなる程に凍り付いた極寒の朝、吐息でダイヤモンドダストを作りながら八経ヶ岳に登ると雲一つ無い最高の展望が広がっていた。見れば見るほどに大峰山は奥深い所にある事を思い知らされる。弥山小屋に戻りバリバリに凍ったテントの撤収に手間取るものの、その後は快晴が続く中、行者還岳普賢岳と軽快に進んでいく。道中は鎖場や岩場も多く楽ではないものの、気候が良いので足取りも軽い。気分の良いままこの日は小笹の宿にて宿泊。

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大峯奥駈道その6(小笹ノ宿→山上ヶ岳→五番関→大天井ヶ岳→四寸岩山→吉野→千股)

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奥駈道縦走の最終日。順調に山上ヶ岳を登り、山上に立ち並ぶ伽藍を見物。さて後は殆ど下り一辺倒、早めに降りて優雅に吉野観光でも……と思っていたのに、山上ヶ岳の下山途中、強烈に足に激痛が走る。大天井ヶ岳、四寸岩山と意外に登り返しが多く、苦痛に呻きながら吉野に降りてきたのはすっかり夜も更けた頃。これだから山は何が起こるかは分からない……こんな夜更けから宿探し? テントでいいよ。

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高取城ハイキング(千股→芋峠→高取城→壺阪寺→壺阪山駅)

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前日の内にテント場探しの過程で吉野川を越えていたという事もあって、なんとなくもう一山越えたい気分になり、芋峠を経て日本三大山城の一つとされる高取城壷阪寺を目指す事に。依然として足の痛みが残るものの、この日はのんびりとハイキング&観光気分。背中の巨大ザックが周囲と浮いていてすれ違う人からは色々と突っ込まれるが……ともあれ無事に壺阪山駅へ下山を果たし、九日間にも及んだ長い登山は無事に終わりを迎えた。

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熊野古道中辺路&大峯奥駈道縦走 帰路と総括(笠置山観光など)

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奈良の駅近のビジホですっかり疲れを癒やした後は、あまり乗る機会のない関西本線に揺られてのんびりと帰宅しました。途中、笠置で降りて笠置寺を見物したりとかで往路と同様に寄り道しながら。前日までの長い山歩きの間にも紅葉が麓近くにまで進んできており、急速な冬の到来を感じられる日だった。

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