山とか酒とか

登山やお酒を始めとした趣味全般を雑多に、また個人的に有用だと思った情報を紹介しています。

剣山系縦走その5(中尾山→犬石峠→剣橋バス停、貞光と脇町観光)

前回記事『剣山系縦走その4』からの続きです。

inuyamashi.hateblo.jp

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5日間に渡った剣山系縦走登山。その最終日は、前日宿泊した中尾山の展望台跡地から中尾山高原のキャンプ場に下山。そこからは犬石峠経由で貞光川沿いの剣橋のバス停まで延々3時間の林道歩きでした……当初の予定では犬石峠から北西方面に尾根伝いに進み、最終的には八面山から下るつもりだったのですが荒天により諸々中止。よって朝早くの下山となってしまったのですが、その分時間に余裕が生まれたので下山後は観光モードに移行。貴重な二層卯建の街並みが残る貞光と、そこから少し下流に移動し重伝建地区に指定された脇町を散策。その後は登山開始以来4日ぶりに阿波池田へと戻りました。

他の日程を見たい方は以下の記事よりリンクを辿って下さい。コース全体の軌跡もこちらに掲載しています。

【2021年3月】剣山系縦走登山についての情報と記録 - 山とか酒とか

また登山の以外の旅行の日程は以下に掲載していますので、山に飽きたらご覧下さいませ。

【2021年3~4月】四国中国登山旅行 - 山とか酒とか

目次

中尾山→犬石峠→奥大野

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未明に起床。天候悪化により以降の予定はカットとなり、この日は山から降りるのみの一日となりました。最後の最後で不完全燃焼な結果となり気分は暗澹としていましたが、天気相手に文句を言っても仕方ない。むしろ早々に山から降りて、その分生じた余裕で観光でもなんでも楽しもうと、気持ちを切り替える事に努めていく。

麓の剣橋のバス停は休日は1日3本のみで、朝8時台のものを逃すと14時台まで無くなる。その場合、何時間も掛けて駅まで歩く羽目になります。日中は雨脚が特に強まるという予報なので、それはなんとしてでも避けたい……という訳でバスの乗車に間に合わせる為にこの日も3時起きとなりました。しかし、その時点で決して少なくない雨粒の音が。風を吹き抜ける音も結構な轟音を立てていてげんなり。

恐る恐る外を覗いてみると、雨ではなく雪の粒が降っていました。麓の気温は一桁との事でしたので十分に予想はできていたのですが実際に降るとは思わなかった。雪も乾いたものであればいいんですけど、みぞれのような重たい雪……服についたらビチャって溶ける一番濡れるタイプの奴です。どう足掻いてもずぶ濡れは必至なので、素直に雨具を着込んで一眼もザックの中に予め収納しておく。

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[5:13]中尾山展望台出発

5時を少し回った所で出発……撤収している間に既にザックは水気を吸ってそこそこの重量に。テントも完全にお浸し状態で吊るしていると水滴が垂れてくる始末。まあ今日は降りるだけだから別にいいかと、湿り気のある諸々を背負う。案の定重いし滴ってくる。耐えるしかない。

出発は5時頃を見込んでいたのですが、そんなこんなで苦戦していて少し遅れる。とは言えバスの発車時間は8:47。3時間あれば十分行けるだろうと高を括っていたものの、結果を言えば結構ギリギリ。後々走りました。

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まずは中尾山高原に下る為に暗闇の樹林帯を進んでいきます。散策路のような道が整備されており、道筋ははっきりしているものの幾つか分岐があって戸惑う事もしばしば。

出発時点で降っていた雪は雨へと変わり、そして次第に弱まりつつある。頭上に生い茂る木の葉が傘になってくれているのかなと思いきや、雨脚そのものが弱まっている様子でした。

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樹林帯を抜け、中尾山高原のグラススキー場のゲレンデの脇を通り抜けていきます。空は徐々に明るくなりつつあるものの雲は多い。

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[5:50]中尾山高原

コテージやオートキャンプ場といったアウトドア施設が立ち並ぶ中尾山高原に到着。4月の下旬からの営業という事で、この時点ではまだ人気がない……山道を歩くのはここまでで、ここから先はバス停到着までの3時間もの間、延々と舗装路歩きとなります。つらい。

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林道の分岐に立っていた謎の人形。旧木屋平村林業団体が作り上げたというキャラクターらしく、その名もきころん。一点物かと思ったら量産されているようで、旧村内を中心に40体以上が設置されているらしいです。

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中尾山高原から犬石峠方面に登り返します。中尾山のピークから直接下るよりは随分と遠回りになりますが、雨の中道なき道を下るのは明らかに危険なので無難なコースを選択。

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[6:23-6:43]犬石峠

中尾山から八面山方面に伸びる稜線との鞍部である犬石峠に到着。ザックの右側の辺りに八面山方面の登山道っぽい踏跡は続いており、最低限の道筋はありそうな雰囲気でしたが……降りると決めたので降りる。

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いつの間に晴れたのか見上げれば青空。雨雲レーダーを見た限りでは徳島県内のこの付近、吉野川中流域のみ雲が避けているような状況でした。暫くは雨が降らなそうなので一眼を再装備。

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引き続き舗装路歩き、バス停まで延々と舗装路を下ります。時々落石が道上に落ちている所も。

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谷を一本挟んだ反対側、前日登った赤帽子山が見えました。山の展望を楽しめる程度には天気は回復しつつありますが……これなら予定通り八面山方面に進んでも大丈夫そうだったかも。

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なんか行先に変な影があるなと思ったらカモシカさんでした。微動だにせず、じーっとこちらを見つめていましたが……一歩を踏み込むと一瞬で背を向け、器用な足取りで崖下に駆け下りていった。

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道中何度か見かけた花。風で大きく揺れていた。

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舗装路を下っていく距離も長いので時々小走りで。

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舗装路の脇、なんか気になる石を見つけたので観察してみる。珪化木と呼ばれる木の化石でしょうか、木目が残っているものの質感は石そのもの。破片を拾い上げてみると金属のような重量感。

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何かの栽培場のような場所が見えてきました。人里は近い。

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開削され掘割のようになった場所。道沿いには墓地があり、その向かいには満開の桜が咲いている……桜の周囲は現在でこそ更地ですが、付近にはあたかもかつて人家が建っていたかのような平地が残っていました。

この辺りに人が住んでいた頃、季節になればこうして花見を楽しんでいたのでしょうが、今やその住人の姿はなく家も残っていない。

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林道沿いには以前は段々畑でもあったんじゃないかと思われる斜面や、住居があったと思しき石垣が多く残っている……自然石を積み上げたものなので相当古い年代。江戸時代より更に前のものでしょうか。

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進むにつれて次第に廃屋が目に付くように。相当昔のものなのか家に至る道等も見つからず、ただ森の中にひっそりと佇んでいる。

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幾つかの建物が集まる一角。こちらも空家っぽいですが、そこまで朽ちていない。麓に移住した後も定期的に見回りに来ているかどうかという雰囲気。張られたネットも真新しく、倉庫には薪が蓄えられている。

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こちらは相当朽ちている廃屋。この付近も他の四国の落人集落と同様に成立したのは中世頃。ごく最近まで畑作等を生業にして生活をしていたと思われますが、見た通り近代以降は衰退著しい。

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© Stanford University. 【図幅名】 剣山 【測量時期】 明治40年測圖/昭和8年修正測圖 【発行時期】 【記号】 剣山十三号 【測量機関】 参謀本部 【備考】 祕 

戦前、昭和初期頃のこの付近の地図。中央にはこれから向かう奥大野集落がありますが、この頃は今よりもう少し上流の方まで集落が続いている……先程の桜の木の付近にも人家が点在していますね。

奥大野→剣橋バス停

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これまで人の気配をまるで感じなかったのが一転、生活感のあるエリアに入りました。数件の人家があり今でも人が住んでそうな雰囲気。

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集落のメインストリート。右の鳥居の先にあるのは王太子神社で、奥の拝殿には行灯が灯されている。こちらについても、ちゃんと管理されている神社のようですね。

この神社も他の平家の落人集落の多くと同様、安徳天皇に纏わる神社です。由緒は平安時代壇ノ浦の戦いにて生き延びた安徳天皇の母親である建礼門院徳子(平徳子)とその妹である廊御方が、安徳天皇の安否を尋ねるべく数名の女官を引き連れて四国に渡る。その後、険しい山道を辿って剣山を目指すも、この地で精根尽き果て石の上に錦を敷いてその上で自害。死の間際には安徳天皇に会っていたと思い込んでいた事から、いつしかその石は「逢うた石」と呼ばれるようになり、それが転じて神社の名の王太子となったという。

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奥大野集落は四国百名山である八面山の麓の町なので、登山口には案内図が設けられていました。奥大野のアカマツと呼ばれる四国最大のアカマツが登山道沿いにあるらしく、一つの名所になっているらしい。

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人家の立ち並ぶ集落内を歩いていきます。大部分は空家で廃墟同然に朽ちたものも目に付きますが、定住者が居るような家も幾つかある。実態は殆ど限界集落ですが、生きている村特有の明るさのようなものも感じる。

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ススキ生い茂る廃屋。上の方に段々畑が続いていたのでしょうか。

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こちらは人が住んでいる家屋。元来の耕作地を利用した家庭菜園のようなものは維持されていますが、周囲の段々畑は家主の高齢化で手が回らなくなったのか荒廃している。

左の畝が残っている辺りを見ると元は茶畑だったように思えます。一宇村は茶の栽培が盛んで、村内には現在でも幾つかの製茶工場があるとの事。それ以前はここも阿波の他の山間集落と同様に葉煙草の栽培が盛んでした。

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山奥には似つかわしくない集合住宅も見かけました。もっとも建築されてから相当年数が経過しており、入居者もあまり居ないような雰囲気……ここも手前には茶畑が広がる。こちらは今でも手入れされてそうですね。

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岩の窪みにフィットしている地蔵。

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下流に進み川又の集落に入ると人家は徐々に増えてきました。こちらの方も空家が目立つものの、それなりに定住者が居る地区のように見える。

しかし平地は依然として少なく、中には川岸に突き出したような家もある。下の方を覗いてみると幾つかの木の柱で支えているだけだったりで……。

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2003年に休校となったつるぎ町立錦谷小学校の校舎が見えてきました。1991年時点で全校生徒数は既に4人にまで減少していますが、鉄筋コンクリートの近代的な建物からはかつての隆盛を窺える……窓際に置かれた祝という文字が寂しげに外を覗いていた。

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川又集落は貞光川の合流地点まで続きます。この付近は比較的賑やかで個人商店等が立ち並んでいる。道のすぐ下には民宿もありますが、つい数年前に廃業してしまったとの事。村の衰退は急速に進行している。

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[8:41]剣橋バス停到着

バスの発車数分前になんとか剣橋のバス停に到着……集落内を見物しながら歩いたみたいな風で書いてましたが、時間に関しては中々シビアで犬石峠以降半分くらいの区間走ってました。ともあれ滑り込みセーフ。

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バス停から南側、貞光川を跨ぐ橋梁。道路は前日経由した見ノ越夫婦池の方に続いています。

時刻表に掲げられていたバスの本数は平日は1日5本、土日祝は3本と至極心許ない。この日は日曜日なので8時台のものを逃した後は15時前まで無く、その場合は貞光駅まで20km歩く羽目になる。

平時であれば得意技のヒッチハイクの出番なんですが、このコロナ禍では……黄金の親指も使わなければそのうち錆び付きそう。

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数分の遅れてやってきた貞光駅方面へ向かうバス……マイクロバスというかワゴン車ですね。コミュニティバスとかで割とよく見るタイプ。この手の小さいバスはいつも荷物載せられるかどうかが心配の種なんですけど、日曜日は病院休みだから多分誰も乗ってこないよと言われ一安心。

という訳で本日の登山パートはこれにて終了。以降13日目の伯耆大山登山まで、暫くの間観光パートとなります。

貞光散歩 類稀な二層卯建が残る街

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貞光川沿いの隘路を延々下り小一時間程で貞光の街中へ。バスは駅前を経由しますが、貞光では街歩きを楽しむつもりだったので、市街地の南端辺りのバス停で降ろして貰いました。

数日ぶりの大都会……という程ではありませんが、人口7,000人程度住んでいる自治体の中心市街地ですからそれなりに街です。

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他の吉野川沿いの街である阿波池田脇町と同様、卯建を持つ商家の街並みが残っています。特にここ貞光は卯建の屋根部分が重なった二層卯建という他では見られない特異な形態のものが残っており、一度立ち寄ってみたかった街でもある。 

貞光は吉野川中流域では脇町に次ぐ規模の街で、江戸中期には阿波池田と同様に近隣の山村で生産された葉煙草(阿波葉)の集散地として栄え、明治以降も町内に葉煙草の専売公社が置かれるなどして賑わいを見せました。卯建はそうした時代に財を成した商家の建物に設けられてたもので、元来は隣家への延焼防止を目的とした防火用。しかし次第に装飾的な意味合いが強くなり、それが極まったものが貞光の二層卯建という訳です。

同じ卯建の街並みで有名な所と言えば重伝建にも指定されている脇町ですが、貞光の街並みが現在のような形態となったのはその脇町よりも後年。あちらは単層なのに対してこちらは二層。当時藍の集散地として飛ぶ鳥を落とす勢いで発展していた脇町に対し、こっちも負けてられるかと感奮興起した当時の貞光の商人達のプライドが垣間見えますね。

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メインストリートの様子。道すがらで半田素麺という文字を見かけ、そう言えば素麺で有名な阿波半田は貞光の隣町だったなと思い出す……この後の行程があるので買いませんでしたが、何度か注文して食べた事があるので懐かしい。久々に食べたくなった。

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貞光の商家群。二層卯建の商家が立ち並ぶ様子は壮観ですが、意外にもここは伝建等の指定を受けていない。一軒一軒は綺麗に手入れされている印象を受けるので、保存活動そのものは行われている様子。

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時刻はまだ10時前。商家の街並みは町のメインストリートでもあり一応商店街という体となっているのですが、この時間から開いている店は殆どない……そんな中、和菓子屋が開いていたのでふらりと入り込んでしまう。

ショーケースには饅頭に大福と素朴なお菓子が並んでおり、価格はどれも百円以下とリーズナブル。店のおばちゃんに、剣山から5日ぶりに麓に降りてきたばかりで甘味に飢えている……なんて話をしたら少しおまけして貰いました。感謝の極み。

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二層卯建が立ち並ぶ街並み。貴重な光景ですが、本格的な保存活動が行われている訳ではなく電柱の地中化等も行われていない。良く言えば自然体、悪く言えば無造作。

古い街並みや建物といったものは文化財等に指定されているごく一部を除き、観光なりで価値を見出さなければ失われていく一方なので、こうした光景が今後何十年と見られるようにするには何かしら行政からの指定や補助を受けなければ難しいでしょう……磨けば光る街だと思うんですけどね。

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路地からの風景。正面に見えるのはかつて齢の友と呼ばれる銘柄の日本酒を醸していた阿川酒造の建物ですが、廃業していて久しい様子でした。建物の保存は為されていないのか、漆喰も所々で剥離し中の土壁が見えている。

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幾つか商店が立ち並んでいて賑やかな雰囲気……ですが人通りは少ない。

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二重卯建。卯建の下には無地である事が多いですが、このように屋号を入れたり鏝絵で装飾したりしているものも見かけました。

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少し進んだ先の商家の卯建。こちらは鯉の滝登りの鏝絵が入っていました。

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商家が立ち並ぶメインストリートから脇道に入った所にあるのが旧永井家庄屋屋敷跡。敷地の正面は小さな公園になっていて、幾つか植えられている桜が見頃でした。

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この建物は江戸中期から後期頃に建てられた庄屋の建物で、母屋は茅葺屋根に加えて瓦葺の庇を持つ少し変わった形態。四方蓋造りと呼ばれ、瀬戸内海沿岸の古民家でよく見られる構造らしい……建築当初から幾らか増築が行われていますが、大きく姿は変わっていないとの事。

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入館は無料でした……おまけにこんな手作りのお土産も。

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中に入って進んでみます。広々とした畳敷きの間は元々は玄関だったらしい。

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表庭に面した客間。縁側に腰掛けて濃いお茶でも啜りたい雰囲気。

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表庭と屋根下の回廊。庭の植木は綺麗に剪定されている。

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こうした古民家では便所は非公開となっている事が多いですが、ちゃんと公開されている……軽く見られがちですが個人的には重要なポイント。

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建物内では昔の帳簿等といった書物が幾つか展示されていました。1658年とあるので、この建物がまだ無かった頃のものでしょう……当時は桑、柿、椿、茶の取引も盛んであったらしい。

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綺麗に磨き上げられた廊下。鏡面のように外の明かりを照り返している。大事に保存されているようです。

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母屋を西側から……釣瓶付きの井戸が目を引く。時代劇なんかで見かけそうな一角。

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離れの建物。専ら寝床として使用されていたらしいですが、本瓦葺で部分的に漆喰の白壁が見られる等、母屋よりも豪奢な造りであるように思えました。こちらの内部にも幾つか展示物がある。

軒下には昔使っていたものでしょうか、年季が入った感じの木桶や樽が並べられている。味噌樽っぽい。

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離れの二階から母屋を見下ろす。母屋の背後には白壁の土蔵も見える。

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離れの屋根も他の商家の建物と同様に二層卯建が設けられていました。貞光の二層卯建の街並みが整備されたのは明治初期頃なので、この離れが建築されたのもその頃でしょうか。

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資料館となった離れの内部。

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最後に敷地内をパノラマ撮影して後にします。

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庄屋の入口の公園で花見がてら先程買い込んだ和菓子を頂きます。右のマドレーヌはおまけに貰ったもの。

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満開の桜、土塀の向こうに見える白漆喰の古民家、そして手作りの和菓子……天気こそ怪しいですが最高のシチュエーションに違いない。

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軽く腹ごしらえを済ませた所で駅に向かいます。街並みは北方向に進むにつれて次第に賑やかになっていきますが、相変わらず人の姿が無い……現在は吉野川近くの国道沿いの方に街の機能が移りつつあるようで、こちらは旧市街といった所でしょうか。

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駅前に向かう伊予街道との交差点に建つ松尾神社。名前の通り京都の松尾大社から勧請された神社です。

松尾神社と言えばお酒の神様。現在でこそ町内に酒造は一軒も残っていませんが、かつては先程見かけた阿川酒造を始め酒造業もそれなりに盛んだったのでしょうね。剣山の伏流水で醸される日本酒……飲んでみたかったですが。

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駅前に続く道を進んでいく。何の変哲もない道に見えますが、江戸時代においては四国各藩から京・大坂、江戸へと向かうメインルートであった伊予街道なので、僅かながら旅籠っぽい建物が残ってたり、町割りもそれっぽい名残があります。

吉野川は藩政期から舟運が重要視され、流域の物資の輸送は主にそうした河川交通を利用して行われていましたが、貞光の町は吉野川沿岸に船着場が設けられなかった為、この街に集められた葉煙草や薪、炭、蚕繭といった貞光川(一宇街道)流域の生産物は専らこの街道を介して運ばれました。

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道中、一際目を引いたのがこの貞光劇場という建物。昭和初期に劇場、芝居小屋として建築されたものですが、戦後は専ら映画館として利用されていました。随分と古びていますが2011年まで現役として使われていたらしく、その為か全体的に綺麗に手入れされている印象。

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映画館のチケット窓口です。タイル張りで周囲と趣が違うので戦後に入ってからの増築でしょうか。二階部分に掲げられた貞光劇場のフォントが中々良い味。

出入り口の上部には色褪せた映画ポスターが幾つか残されていました。最晩年は成人映画の上映がメインだったという話ですが、流石にそうした類のポスターは残っておらず『男はつらいよ』や『釣りバカ日誌』といった無難なラインナップのものが占めている。

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旧伊予街道を駅方面へ進んでいく。飲食店等が立ち並んでいますが既に畳んでしまったお店も多く寂れ気味。右の写真の建物は恐らく元旅籠でしょうね。

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途中から道を折れて短い駅前通りを進みます。駅前は人の気配というものがなく、面した店舗のシャッターも降ろされて久しい様子。

【移動】特急剣山で穴吹駅

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貞光駅に到着しました……登山初日以来、4日ぶりの鉄道利用となります。

駅舎は大正三年の開業時に建築された古い木造駅舎ですが、色々と魔改造が施されていてあまり古さを感じさせないもの。四国ではこうした改装木造駅舎を結構見かけるのですが、流石に老朽化著しいのかここ最近は姿を減らしつつあるらしい。

と、そこそこ立派な駅舎を持つ貞光駅つるぎ町の中心駅という事もあって特急も停車する線内では割と大きな駅なんですが、土日は窓口が閉まっており無人駅同然の状態でした。

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ベンチで寛いでいると阿波池田方面から特急がやってきた。桜と列車のコラボって感じで中々良さげ。

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ホームに滑り込んでくる徳島線の特急……愛称はその名も剣山。剣山から降りてきて一番目に乗る列車としてはこれ以上になく自然。

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列車は県都徳島に向かって走ります。既に宿を抑えてある阿波池田とは逆方向なんですが、半日時間が余っているので少々寄り道。吉野川中流域の重伝建地区である脇町を観光するべく、最寄りの穴吹まで移動します……運賃は特急料金も合わせて550円と、特急に乗っている割には手頃な価格。

通常、JRの特急列車に乗車する場合は乗車券の他に所定の特急料金が追加で掛かりますが、幾つかのJRの路線には特定特急料金と呼ばれる通常よりも安い料金が設定されている制度が存在します。

特定特急料金制度は各社各路線毎に設定されており金額もまちまちなんですが、JR四国の場合は短距離(25km以下)で特急の自由席を利用する場合、通常より安い330円という価格が全路線で設定されているので、ちょっとした移動でも気軽に特急に乗れるという訳です。

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特急で僅か一駅、穴吹駅に到着しました。徳島から阿波池田までの70km、吉野川の南岸を延々走る徳島線ですが、ここ穴吹はその中間の区切りとなる駅で運行上の拠点という位置付け。この駅を始発終着とする列車も多く、徳島方面はそれまでの区間の二倍近くの本数が設定されている。

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前述した通り徳島線内では比較的大きな穴吹駅ですが、駅舎まで続く通路は昔ながらの構内踏切。ホームに止まる列車こそ真新しいですが、全体的に旧態依然とした雰囲気が残っています。

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これから脇町の観光へと出向くのですが、差し当たって大いに問題なのはこの荷物。しかも嵐の中テントを撤収したので水が滴っており、背負う度に背中や腰が濡れる……こんなものを担いで観光なんて想像しただけでも嫌なので、駅で預かって貰う事にしました。

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荷物を預ける際、この駅にはロッカーは無いので窓口で預かって貰う事になりますが、引き換えに珍しいものを手渡されました……これは狭義の意味でのチッキと呼ばれるもので、昔の手荷物預かりサービス、ひいては手荷物輸送制度(チッキ制度)の名残でしょう。

現在は駅でちょっとした荷物を預ける際はコインロッカーを利用するのが主流ですが、それが無かった時代はこうして駅で預けていたのです。というのも今のように宅急便で荷物を気軽に送る事ができなかった時代、遠出する際には何かと大荷物を抱えて列車に乗り込む事が多く、そうした荷物の受け渡しの為に手荷物取扱所と呼ばれる窓口が日本全国の鉄道駅(一般駅)に標準的な設備として設置されていました……そこでの業務の一環として荷物の一時的な預かりも承っていたという訳です。

そうしたサービスも今やコインロッカーに置き換わっている所が殆どなので、このチケットはシステムも含め貴重なのではと思います……個人的にはロッカーに入らないような荷物も預かって貰えるので大変有り難いのですが、いつまで残るかな?

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駅舎内、かつては売店でもあったのかなという一角には地元名産品の展示コーナーが設けられていました。市内には酒造もあるらしく四合瓶が幾つか並んでいる。

穴吹駅が位置する美馬市平成の大合併で4町村が合併して成立した市ですが、それ故に面積は広大で、先程街歩きした貞光から吉野川を挟んだ対岸側も市域に含まれています。

喜来の銘柄を醸す菊司酒造は今回歩く旧穴吹町、旧脇町の町域ではなく少し離れた旧美馬町のエリアにあるので残念ながら今回は見送りです。並べられた四合瓶をざっと見た限り、面白そうな酒を作ってる印象なので飲んでみたかったのですが。

後々気付いた事ですが、菊司酒造は貞光駅から徒歩圏内とも言える距離にあるので実は立ち寄る事は十分可能でした……とは言え、いざ行った所で無駄足になる可能性が高かった訳ですが。酒造って日曜日は大概休みなので。

穴吹駅から八幡神社、長岡家住宅

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荷物を預けて身軽になった状態で穴吹駅をスタート。ここも貞光駅と同様に少し手が加わったタイプの木造駅舎ですが、三角の切妻屋根以外は殆ど原型を留めている感じ。

目当ての脇町は駅から3キロ弱離れていて、徒歩では気軽に回るには少々気合が必要となる距離……残念ながらレンタサイクルの類はありません。ふらっと自転車で回るにはちょうど良い距離だと思うんですけどね。

他、脇町までのアクセス手段となると路線バスがあります。最近になって穴吹駅から脇町の重伝建地区すぐ近くの道の駅を結ぶ美馬市営バスの路線が開設されたので、それに乗れば楽に移動できます。しかし本数が一日3本しかなくタイミングが合わなければ使えません。今回もお昼の便は行ってしまったばかりという事で、結局徒歩で向かう事になりました。

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駅前にはここ穴吹の銘菓であるぶどう饅頭を製造する日乃出本店の本社があります。徳島県内の土産物としてはそこそこ名の知られたお菓子らしく、高い建物の少ない駅前に建つ5階建てのビルは一際異彩を放っている。

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駐車場の出入りが激しく、流行ってそうなうどん店を見つけて足を止める……山の中を歩いてる時は行動食みたいなのを食い繋ぐ程度でも全然平気なんですけど、一旦麓に降りると忍耐力というものが一転して消失してしまうのか、少しでも美味そうだなと思ったら次の瞬間には店に入っている。

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吉野川流域は香川の讃岐平野とは山一本挟んでいるだけと距離的に近く食文化も似通っているのか、うどんは至ってオーソドックな讃岐うどんでした。温ぶっかけうどんを注文しましたが、汁は保温プレートに載せられたヤカンの中に入っており、うどんを受け取ったらセルフで注ぐタイプ。麺の腰は強く汁はやや甘辛。丸亀で食べたものとはまた違った感じで美味しかった。価格もお手頃。

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昼食を済ませた後はいよいよ脇町へ。駅がある穴吹吉野川南岸、対する脇町北岸と川を隔てているので、駅東側の穴吹橋を渡って吉野川を越えます。交通量は結構多い。

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橋の上からの吉野川。全長こそ四国最長の四万十川に僅かに及びませんが、流域面積は遥かにそれを越えるので実質的には四国最大の河川とも言えます。川幅も相応に広く、この付近は河口から40km遡った地点であるものの対岸まで650m、徒歩で10分掛かる

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吉野川を越えて旧脇町の町域に入りました。厳密に言えばこの付近は拝原という別の町で(旧江原町拝原)、脇町の中心地は約2km西に進んだ所にあります。

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ここは穴吹付近を東西に通過する国道と脇町の高速のインターを結ぶ幹線道路上でもあるので、観光客向けの案内看板が設けられていました……形状も卯建を模したようなものとなっている。手描き感溢れる素朴なデザインですが、縮尺が歪んでいている上に内容もちょっとアバウト。

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吉野川北岸の東西交通においてのメインルートとして県道12号線が通過しているのですが、それに並行して写真のような広々としたバイパス道が伸びています……ザ・車社会って感じの景観。

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途中の八大龍王神社。二本の巨大な御神木が視界に入りなんだか気になった。引き寄せられるかのように立ち寄ってみました。

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境内から社殿と御神木のクスノキ……社殿が添え物のように思える程に巨大。樹齢何年くらいあるのかな。

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神社は拝原の集落の町外れにありますが、古くからの集落なのか大きな長屋門を構えた屋敷があったりする。

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更に北上して旧撫養街道(川北街道)である県道12号線に合流。吉野川に沿って東西に伸びる街道は2つあり、一つは南岸の穴吹を通っている伊予街道、もう一つは北岸の脇町を通っている撫養街道とあります。

伊予街道の方が江戸期、徳島藩主蜂須賀家の居城であった徳島城を起点として整備されたのに対し、撫養街道の歴史は非常に古く、飛鳥時代に発令された大宝律令により全国に整備された七道である南海道がその前身とされる。ちなみに街道の名の撫養とは現在の鳴門市中心市街地辺りを指す地名で、古くは奈良平安から港が開かれ、多くの商船が寄港する四国の玄関口とも言うべき港町でした。四国八十八ヶ所霊場の第一番が現在の鳴門市内の霊山寺であるのもその名残でしょう。

左の写真の改良住宅が面した通りが県道ですが、旧街道は一本北側の別の道を経由しています。県道とは少し先の交差点でクランクのような形で合流する。

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旧街道に合流し西方面に歩いていきます。山裾に植えられた桜並木がちょうど見頃を迎えていました。

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旧街道に面した八幡神社。この付近では最も規模が大きい神社で、河岸段丘の上に設けられた社殿までちょっと長めの石段が続いています。

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石段を登っていく……登りきった所の狛犬。社殿の近くには西側から車道が伸びているので、車で直接乗り付ける事も可能。

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八幡神社。創建は不詳ですが室町時代頃には既にこの地にあったとされています。社殿はそこそこ大きいですが、周囲は木々に囲まれていて静まり返っている……ちなみに先程の八大龍王神社はこの八幡神社の境外末社(境内から外れた所にある末社の事)という扱い。

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八幡神社に隣接して旧長岡家住宅という農家の遺構があるので寄り道。入場は無料でした。

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均衡の取れた茅葺屋根と暖色系の土壁が美しい旧長岡家住宅。こちらは国の重要文化財に指定されており江戸中期頃の建築とされる。神社仏閣と比較すると民家の重文指定は多くはなく、特に江戸中期以前の建築は数が少なく貴重です。

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敷地内には桜が咲いている……商業都市として栄えた脇町には似つかわしくない素朴な建物ですが、元来はもう少し山間部の西大谷地区に建っていました。保存に際して町の中心近くのこの地へ移築したという話。

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内部の様子。無人ではあるものの綺麗に整頓されていました。

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こちらは寝間。間取りは土間と寝間が一つずつあるだけと至ってシンプルな構造で、それぞれに囲炉裏が設けられています……先程行った貞光の庄屋屋敷とはまた違う、質素でいてどこか纏まりのある印象の古民家でした。

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長岡家住宅から西に進むと、墓石がずらりと立ち並ぶ寺の境内が視界に入る。その奥には最明寺という、付近では一際大きな寺院があります。平安後期作の木造毘沙門天立像を収蔵し、こちらは重文指定を受けている。

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石灯籠と桜の木。雲が厚く昼間にも関わらずどんより薄暗いですが、幸い今の所は雨は降っていない……しかし湿った風が吹いてきて、今にも降り出しそうな気配が。

脇町散歩 藍商で栄えた卯建の街

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街道に復帰して脇町方面へ。小規模の商業ビルが幾つか立ち並ぶ、かつての中心市街地に入りました。

自治体である美馬市のみならず吉野川中流域の経済的・行政的中心地である脇町。町内に鉄道が敷かれる事は一度として無かったものの、平成の半ば頃までは穴吹駅や更に下流鴨島駅板野駅方面からJR四国バスの路線(阿波線)、加えて讃岐山脈を越え香川県の高松までの路線が伸びていたり等、それなりの公共交通網が整備されていました。

しかしその後車社会化が進行し、町内を経由する路線バスは一時全廃。最近になって1日3便の市営バスが設定されたという次第です。

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脇町の市街地を南北に貫く大谷川の上流を橋の上から臨む。吉野川の南側の剣山地は降水量も多く川の水量も豊富であるのに対し、吉野川の北側にある讃岐山地は瀬戸内海式気候で降水量が少なく、北に向かって伸びる支流では写真のように干上がっている事も多い。

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卯建を持つ商家や古そうな建物を見かけるようになりましたが、まだここは重伝建地区ではない。

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安楽寺という浄土真宗の寺院。脇町の市街地北西部周辺は幾つかの寺院が立ち並ぶ寺町を形成しています。

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街道から南側の道に入りようやく重伝建地区へ。

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ここが重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定された脇町のメインストリート。街道から一本南に並行した道なので南町通りと呼ばれています。

集散地として自然発生的に作られた貞光とは違い、脇町は戦国時代にこの地を支配した三好長慶により築かれた脇城の城下町として整備されたのが始まり。江戸時代に入り一国一城令により脇城は廃城となった事で城下町としての役割は失われましたが、その後徳島藩の財政政策として藍栽培が奨励され、脇町はその藍(阿波藍)の集散地として賑わう事となります。特に江戸中期に差し掛かると各地で干拓が進んで木綿の生産が高まった事で藍の需要も飛躍的に高まり、脇町は阿波国随一の商業都市として大いに発展を遂げました。

その頃の隆盛ぶりが立派な商家が立ち並ぶ様子として現在でも残されており、およそ400mの距離を連綿と続く街並みは壮観そのもの。故に観光地としてもそれなりに知られている場所なのですが、雨が降り始めたという事もあり人の姿は疎らでした。

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西側の入口から南町通りを進んでいく。電柱は地中化され、アスファルトの路面も土の色を表現している。電話ボックスに掲げられた自動電話という単語もレトロな響き。

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かつて法務局として使用されていた建物。脇町といえば藍なので、幾つかの所で藍染体験なんかもできます。

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二層卯建という特徴的な卯建が目立った貞光と比較すると、こちらはシンプルな単層のもの。しかし街並みそのものの規模はずっと大きく、ずらりと卯建が並ぶ様子は圧巻というべきか。

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卯建の上に乗った鬼瓦。

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街並みと卯建と鬼瓦。普段であればもう少し観光客の往来があるんでしょうけど、コロナ禍に加えて悪天候という事で閑散としている。

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漆喰壁の路地の様子。

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卯建が連なる脇町の街並み。二階部分に虫籠窓が設けられた町家も多いです。

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それなりに観光地なので中で飲食を楽しめる建物も幾つかあります。ぜんざいの幟には正直惹かれたけど、和菓子は飽きる程食べたばかりなので見送り。

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ボンカレー琺瑯看板みたいな胸焼けしそうなまでに作為的なレトロ。正直好き。

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一際立派な吉田邸の建物……脇町でも1、2競う大商家だったとの事。建物の内部では書展が開かれていました。

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吉田邸の裏には道の駅があります。その名も『道の駅藍ランドうだつ』……と並々ならぬセンス。国道に面していない為か道の駅としては小規模で、土産物屋やソフトクリーム等の軽食が頂ける施設がある程度。道の駅というよりは観光駐車場のような雰囲気。

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脇町が集散地として栄えた要因の一つが吉野川を利用した舟運で、その船着き場となる川湊がこの道の駅の下の辺りにあったとされています。

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再び南町通りに復帰。人が少ないのでじっくり回れるという事もありますが、賑やかな商業都市を由来とする街並みなので、賑やかな雰囲気は少なからず欲しいというジレンマも。

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東側、一見突き当たりに見える所に昔の共用井戸が残っています。井戸がある地点は南側に脇道が伸びる三叉路となっており、南町通りは北側にカーブしつつ続いている。

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三叉路付近を振り返った所。卯建の街並みはもう少し東側、大谷川の川縁近くまで続いています。

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脇町の卯建。これだけ広い範囲だと保存活動も並大抵の労苦ではなさそう。

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東側の起点、終端部が見えてきました……付近には商店やカフェなどもあります。時節柄、藍染のマスクなんかも売っていたけど結構いい値段がした。

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右の町立図書館は昭和の終わり頃に建てられたものですが、周囲との景観の調和を考慮した結果、白壁に袖卯建、二階には虫籠窓を設けたものと、脇町の商家のテンプレートを踏襲した造りとなっています。

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先程の三叉路から南の道に入ってみました。漆喰塗りの土蔵が通りに面して立ち並んでいる。

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東の起点から南町通りを振り返った所。そして大谷川の向かいには一際目を引く古めかしい建物が。

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川縁に建つオデオン座(旧脇町劇場)の建物。貞光の駅近くで見かけた貞光劇場と同様、こちらも昭和初期頃に芝居小屋として建てられ、戦後は映画館として使用されました。こちらは市指定文化財として保存されており内部が見学できるようになっていますが、この日は行事で使用されるとかで残念ながら入れませんでした。

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オデオン座のステンドグラス。右読みというだけで唆られる。

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市民ホールや図書館などの複合施設である、美馬市地域交流センター『ミライズ』の建物。物凄く近代的な建物なはずなのに屋根は本瓦葺。申し訳程度の卯建が設けられており、屋上には土蔵らしき切妻屋根の建物が生えています。シュールすぎる。

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美馬市ゆるキャラである『うだつまる』の像。この街は卯建に始まり卯建で終わる……そう言っても過言ではない程の徹底ぶり。

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大谷川から東側に進むと次第に街並みが寂しくなってきたので南側に転進、吉野川の川岸の堤防道路の上に登りました。

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堤防道路からの長め。吉野川四国三郎と呼ばれ、日本三大暴れ川として洪水や氾濫が頻繁に起こっていた流域。そうした暴れ川を抑える為の堤防ですから相応に高く眺めは良いです。

ちなみにこの地で藍栽培が盛んに行われた理由として、殆ど毎年のように洪水が起きていたという点があります。というのも藍という植物は連作障害が発生しやすい植物で、通常では全く同じ場所で栽培を続けるのは不可能でした。しかし毎年のように起こる洪水によって頻繁に土壌が入れ替わる事で、同じ場所での栽培を可能とした訳ですね。

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駅前へと続く人道橋のふれあい橋を渡り吉野川の南岸へ。往路に渡った穴吹橋とは違い車は通行できない……徒歩で駅まで行く人しか使わなそうな橋ですけど、偶に自転車に乗った高校生が通ったりするのでなるほどなと納得。

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ふれあい橋から上流。貞光、阿波池田方面。河岸には竹藪が生い茂っています。

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こちらは下流鴨島、徳島方面。往路で歩いた穴吹橋が正面に見えます。南岸の穴吹は元来、脇町とは成り立ちは全く別の町で、江戸期には穴吹川上流の木屋平などで生産された葉煙草等の集散地として栄えていたとの事。卯建を持つ豪奢な建物が立ち並ぶ脇町や貞光と比較すると規模は小さいですが、本瓦葺で虫食い窓を持つ商家といった往時の建物は僅かに残っているらしいです。

穴吹中心市街地は写真中央部、僅かに穴吹川に入った所に谷口集落との事ですが時間がなく今回は立ち寄りませんでした。

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対岸にある穴吹の駅舎が見えてきました……が、その手前の日乃出本店のビルの方が存在感が強い。

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南岸に上陸した所。手前を通るのが国道であり旧伊予街道ですが、交通量が多く信号が中々変わらない。

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駅のホームに何やら変わった列車が止まっているので覗きに行きました。

二日目に丸亀で見かけたアンパンマンロッコとはまた違ったトロッコ列車……側面に『よしのがわトロッコ』とあるので、この徳島線内に限定して運用されている車両でしょうか。

しかし雨が降っているにも関わらず多くの乗客はトロッコの方に居ます。まあトロッコ列車なんだからトロッコの方に乗らないと意味ないですよね。気持ちは分かる。

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少し時間があったので、駅前の日乃出本店のビルでぶどう饅頭をお土産兼行動食用に買い求めました。色物っぽいですけど実は100年以上昔から存在する由緒ある銘菓で、鉄道利用が主流だった頃は穴吹駅でも立ち売りが行われていたとの話。

名前はぶどう饅頭ですが、見た目は一般的な饅頭ではなく白餡をただ丸めただけのもの。ぶどうの果汁も入っておらず、代わりに練乳が入っているという不整合ぶりが素敵ですね……練乳入りなので右の季節限定のいちご味は特に美味しかった。

長い歴史がありながら、ちょっと変わった趣向の面白い銘菓です。練乳が入っているのでほんの僅かですが洋菓子寄りの風味、紅茶なんかと合うんじゃないかと思いました。

【移動】4日ぶりに阿波池田

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穴吹駅の窓口で荷物を受け取りホームへ、そして入ってきた列車に乗り込み宿泊地の阿波池田へ向かいます。時刻は16時前、徳島方面からの買い物客が多く一両の気動車はそこそこ混雑していました。

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1時間弱で阿波池田に到着。4日前、この駅から登山のスタート地点である土佐岩原に向けて列車に乗り込んだ以来ですね……駅のホームを踏み締めると生きて戻ってこれたという実感が僅かに湧いてきた。

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4日ぶりの阿波池田駅。街歩きは4日前に軽くこなしたので、この日は寄り道せず宿屋へ直行します。天気もアレですし。

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4日ぶりのアーケードを潜り4日ぶりの定宿……とまでは言えないですが、本日の宿であるふくや旅館へ。チェックインを済ませて部屋に荷物を運び込んだら風呂に直行。蕩けるような心地良さでした。

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風呂から出て軽く涼んだら食事タイム。本日の夕餉は茶色定食……どれも駅併設のセブンイレブンで購入した品々。山から降りたばかりの時って小奇麗な料理よりも、こういうジャンクフードじみた食事の方が唆られる不思議。

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夕食を食べ終えてリラックスタイム。畳敷きの部屋で寛ぐのも、布団の中でぬくぬく寝られるのも久々……という訳で5日間に渡った剣山登山はこれにて終了です。

最終日は後々の行程を殆どカットしてして朝の内に降りてしまったという事もあり登山要素は希薄でしたが、その分麓での街歩きを楽しめたので個人的にはそこそこ満足な一日となりました。その所為で内容的には観光に偏重した一日となりましたが。

さて、旅自体はもう少しだけ続きますので、もう暫くの間お付き合い頂けますと幸いです。

次回記事『8日目 高知城と酒造町佐川』に続く。

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