四国中国登山旅行8日目 高知城と酒造町佐川
五日間にも及んだ剣山系の縦走登山は若干の予定の狂いはあったものの無事に終わりを迎え、今回の旅行の主目的はひとまずの達成となりました。しかし数年振りに訪れた四国の地。折角の機会という事で以降は観光モード。宿泊地の阿波池田からは高知県に入り、県都高知を始め、前々から気になっていた佐川、須崎等といった幾つかの街を散策。高知では現存十二天守の一つである高知城を巡り、酒造業で栄えた佐川では市街地の中心に座する司牡丹の酒蔵を訪問。漁港で有名な須崎では酒のアテとなる魚を幾つか購入したりと、この日は取り分けグルメ的な楽しみが多かった一日でした。
「7日目 剣山系縦走その5」の続きの記事となります。
他の日程を見たい方は以下の記事よりリンクを辿って下さい。
目次
- 【移動】土讃線で県都高知へ
- 高知その1 朝方の市街地散策
- 高知その2 現存天守高知城
- 【移動】路面電車と土讃線を乗り継ぎ佐川へ
- 佐川その1 市街地までのアプローチ
- 佐川その2 観桜の名所、牧野公園
- 佐川その3 土佐の銘酒、司牡丹
- 須崎散歩 高知県を代表する水産の町
- 【移動】土讃線の終着窪川、そして県境を跨ぎ宇和島へ
- 【移動】四国一のローカル線、予土線
【移動】土讃線で県都高知へ
山へ赴いた5日前と同様、まだ月が昇っている時間帯に出発となります。この日は一転して旅行気分で、登山を控えている時ような緊張感は無い。
列車移動に備えて阿波池田駅へ。まだ早朝の5時台ですが、駅舎は早くも眩いまでの輝きを放っています……の割には人気が全く感じられないのは5日前と同様。
構内に入ると、この駅を起点として各方面へ向かう列車がうろうろ行ったり来たりしながら次々にホームに進入してくる。朝方から忙しそうに見える。
高知行きの普通列車に乗り込みます……この列車、5日前に登山口である土佐岩原まで乗ったものと同時刻のもの。この日は途中で降りずに終点の土佐山田まで乗り通します。
初っ端からの難路に備えて地形図で尾根読みしたり、水場の位置を再確認したりしていたりと登山に向けての予習に勤しんでいた前回とは違い、今回は気分に余裕がある為か車内のあちこちに目を向けたりする。そんな中、JR四国の路線図が両開きドアの上部に掲げられているのが目に付きましたが……こうして見ると殆ど骨組みだけというか、必要最低限という印象を受けますね。実際には徳島を除く県庁所在地に私鉄が走っているので路線網そのものとしてはもう少し充実しているのですが。
8日目にしてようやく2回目を捺印。今回の旅行では小移動で元が取れない日が多く、全14日間の行程で5回分、丁度1枚に収まってしまう程度の使用頻度でした。
5日前と全く同じ列車なので、5日前と同様に阿波川口駅にて列車の交換待ち。しかしその頃に比べると日が長くなったのか、ホームから見上げる空は早くも白み始めていた。
前回の下車駅である土佐岩原を越えて更に先へ。特急の本数が多いので、ちょくちょく交換待ちとなる。右の写真は吉野川を跨ぐ橋梁上にホームがある事で有名な土佐北川駅のホーム。
途中の新改駅でのスイッチバック。2日目に見かけた坪尻駅と同型で、停車する列車のみZ字に進行してホームに入るタイプの配線。
新改から山を下って土佐山田駅。ここから高知平野に入り、琴平から延々と続いていた山間の風景は一転して開けたのものとなります。ここから先は高知の通勤通学圏、列車は一旦ここで乗り換えとなり、編成の長いものに乗り込みます。
土佐山田は高知東部の主要都市であり、扇状地の際という立地から古来より集散地として栄えた町です。市街地には大々的には残っていないものの往時の面影を残す商家の建物が幾つか残存しており、また酒蔵もあるというので一度は寄ってみたい街なのですが今回はパス。
ちなみに先日登った三嶺の登山口までこの駅から物部川沿いにバスを乗り継いで入る事も可能だったので、今回の登山のスタート地点としても検討していた場所の一つでした。
乗り換えの待ちの間、反対側から特急列車が分岐路を掻き分けて静かに進入してきました。朝方の時間帯なので5両編成、四国を走る特急列車としては長い部類。
車窓から見えた飛び立つ鳥。平野部と言えど高知平野は東西に細長い地形で、すぐ北側には四国山地の山々が迫る。
安芸方面に向かう土佐くろしお鉄道が分岐する後免駅。駅名標はこの駅のみイレギュラー的にひらがなが強調されている。故に印象に残る。
高知その1 朝方の市街地散策
高知駅に到着しました……岡山以来の県庁所在地でしょうか。県を代表する駅としては若干シンプルさを感じさせる構造の高架駅でした。
ホームにて出入りする列車を眺める。普段は単行の列車が行き交う線区ですが、朝のこの時間帯は4両くらいの比較的長い列車が行き交い、それなりに都市の駅という印象を受ける。
JR四国の実質的なイメージキャラクターとなって久しいアンパンマンですが、特に高知は作者のやなせたかしの出身地であるという事で、展示の気合の入れ方も違いますね。
改札を抜けて外へ。高い建物がそこまで多くないからでしょうか、空が広く南国高知らしい印象。
駅前すぐの所にとさでん交通(旧土佐電鉄)、路面電車の電停があります。次の目的地である高知城はこれに乗っていけば数分ですが……朝の運動がてら歩いていく事に。
高知駅の駅舎です。改築されて以降も一度くらいは訪れているはずですが、未だ昔来た時の地平駅の駅舎の印象が強いです。
路面電車のある街の風景。四国は4県のうち2つには路面電車がある路面電車大国でもあったり。
駅から歩き始めます。何度か来ている高知ですが町を歩いた記憶は無く、現存天守である高知城にも寄った事はない……という訳で、この機会に街歩き&城巡りを敢行。
高知といえば幕末志士を多く輩出した土地という事で、そのPRの為か駅前には最近作られたと思しき銅像が並んでいました。左より武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎といった顔触れ。
駅前通りを路面電車の線路に沿って南下していく。歩いている間に幾つもの電車が通り過ぎていった。
高知橋を越えた辺りが古くからの市街地に当たるようで、更に先に進むと道路の両側、東西に向かって全蓋式のアーケード商店街が伸びていました。
アーケードの一つ、はりまや橋商店街に入ってみる。まだ朝早い時間帯だからか店の大部分は開いておらず、人通りも疎ら。
途中で見掛けた自虐気味のモニュメント。
人気のない静かな商店街。この付近は江戸期には船着き場が置かれ浦戸町、種崎町と呼ばれた当時の物流の拠点でした。町名の浦戸、種崎は高知の南、海に面した所にある同名の港町から水夫を移住させたのがその由来。
途中で道を折れると市場のような雰囲気の街並みとなり、看板には魚の棚商店街とあります。魚の棚といえば初日に巡った明石のものが有名ですが、元は魚店(たな)から由来……つまり魚を扱う店を多く出していた一角がそう呼ばれており、かつては全国の沿岸都市で見られた一般名詞でもありました。
この通りは先程の種崎町の船着き場に隣接した所にあるので、水揚げした物をすぐに店に並べられるように近くに設けたのでしょう。
この付近もかつては同様の市場だったと思われますが、現在では殆ど飲み屋街と化していました。
先程のアーケードに復帰し終端部に進むとよさこい会館があります。高知のよさこい祭りと言えば四国では阿波踊りに並んで有名な夏祭りですが、元々は民謡の一つ。北海道のYOSAKOIの発祥でもあります。
よさこい会館の近くからはりまや橋方面に向かって江戸期に掘られた運河である堀川の跡地が続いており、船着き場はこの付近に存在しました。現在は埋められてしまっており、かつての川面は遊歩道や公園に姿を変えています。
暗渠の一本南の所には国道56号線が高知の市街地を東西に貫く。軌道も敷設されており路面電車が頻繁に行き交う。
適当に歩いていたら、目的地である高知城とは真逆に向かってしまっているので軌道修正。一旦、先程の駅前通りの方へと向かいます。
はりまや橋の電停に戻りました。橋というだけあって欄干が見えますが、橋が跨いでいたのは埋められてしまった堀川なので、既に橋としての使命は終えています。
はりまや橋の西側に移動しました。元々は堀川に架かる小橋でしたが、高知の市街地の中心近くの立地という事もあって、江戸期によさこい節、昭和に入って歌謡曲として歌われたりして、今日では非常に知名度の高い観光地となっています。
なんか年々整備が進んで小奇麗になっているような気がするはりまや橋(復元)。上に乗って写真を撮るのがお決まりのようですが、朝早い時間帯なので観光客の姿はありませんでした。
はりまや橋との近くにはとさでん交通のはりまや橋の電停があります。東西南北から伸びてきた路線が合流するジャンクションでもあり、すぐ南側の交差点には複雑に入り組んだ線路が見える。
堀川の跡地を西に進んでいきます。こちらも公園のように整備されており、植えられている桜が見頃。
中央公園の近くには大丸デパートがありますが、まだ営業開始前なのでひっそりと静まり返っていました。
ここからアーケード街に入っていきます。帯屋町商店街と呼ばれる市内でも随一の規模の商店街で、先程のものと比べると道幅は広く余裕を持った構造。
帯屋町商店街の様子。まだ開いている店は少ないですが人通りは次第に増えてきた。
商店街は長く、高知城のすぐ手前の所まで500m続いている。
商店街の望遠。
商店街の中を進んでいく。途中で幾つかの道路を跨ぐ。
古くからのアーケード商店街ですが、全くの旧態依然といった訳ではなく大型の商業施設が面している場所もある。
隣接する大橋通り商店街へ。こちらは土佐の台所と呼ばれる一角で、これまでのチェーン店が立ち並ぶ繁華街から一転して市場のような雰囲気に。
商店街から一旦国道の方に抜けました。付近は県庁や市役所が近い官公街で、繁華街であるはりまや橋近辺と比べると幾らか静か。
高知その2 現存天守高知城
高知城の内堀にやってきました。南東部の広場へと続く橋は工事中で通行止めで、追手門から入る事に。
追手門越しに見えた高知城天守。2日目に寄った丸亀城程には登る事は無さそうで一安心。
追手門と天守。やや小振りながらも均衡の取れたスタイル。
少し角度を変えた所から天守とその望遠。高知城の前身は南北朝時代、高知平野の中央に平山城として築城された大高坂山で、一旦廃城になった後、江戸の始めに山内一豊によって城下町と共に整備が行われ、これが現在の高知の街の原型となりました。
現存十二天守の一つが残る城として有名ですが。建物そのものは築城当時のものではなく、江戸後期の火災で消失した後に再建されたもの。
入口のすぐ側には築城に携わった山内一豊の像が。出自は遠く離れた尾張国で、織田家とも近縁であった岩倉織田氏の配下であったが後に対立し敗北。一族は離散を余儀なくされ一時は流浪の身となりますが、後に織田配下の豊臣秀吉に仕える。
秀吉の死後は徳川家康に接近、関ヶ原の戦いでも東軍に与し手柄を立てた事で、後に土佐の一国を任された。
追手門。こちらも天守と同様に江戸時代からの現存。
追手門から入った所の広場から天守を見上げる。すぐ近くには明治時代の政治家で、後の国会開設に繋がる自由民権運動を主導した板垣退助の像があります。高知はその板垣の出身地であり、運動が特に盛んな地域でした。
板垣退助像と天守。「少年よ大志を抱け」ではなく「板垣死すとも自由は死せず」です。実際は「吾死するとも自由は死せん」だったらしいですが。
広場には簡素ではありますが観光案内所やコインロッカーが設けられていました。天守まで大した登りではなさそうなので荷物はそのまま担いでいこうと思ったら、ロッカーの利用料金は無料との事で喜んで活用……ロッカーは小型オンリーだったのでザックまるごとは入らなかったのですが、湿ったテントやコンロ等の重量級をぶちこんだら幾らか身軽になりました。
天守を目指して進んでいく。天守そのものは小振りですが、土佐一国の城として城郭全体の規模はそれなりに大きく、一帯には立派な石垣が並んでいます。
三ノ丸の石垣と天守。丸亀城でも見かけたアイスクリンの屋台がありました。讃岐と土佐では四国山地を挟んでいるので文化圏が違うような気がしますが、少なからず交流はあったのでしょう……というか高知の方が本場らしいです。
天守と桜。丸亀城の桜は三分咲きといった所でしたが、5日間山の中を彷徨っていた間に見頃を迎えたようです。
天守と石垣。苔生していて良い雰囲気。
天守へは北側の二ノ丸に向かって伸びる詰門から入り込みます。
本丸へと通じている詰門。白漆喰と黒漆のコントラストが美しい。こちらも天守と同時期の建築。
詰門の内部の様子。本丸と二ノ丸を結ぶ廊下橋となっていて、その横には身分毎に用意された溜間(控えの間)が続いている。
本丸に到着しました。手前にある本丸御殿から天守へと入っていきます。現存十二天守の中でも天守と本丸御殿の双方が現存しているのはこの高知城のみとの事……つまり本丸全体が当時の姿そのままで残っているという事でもあります。
本丸御殿の建物。鬼瓦にはこの城の城主であった山内家の家紋である丸三葉柏紋が象られています。
御殿に入った所にNHKの大河ドラマ『功名が辻』の特設コーナーがありました。初代城主である山内一豊をテーマにしたドラマですが、自分は大河をまともに見始めたのは割と最近の事なので名前くらいしか知りませんでした。
大河の題材となった場所も全国回ってると寅さんのロケ地並に遭遇するので、結構色々な所でやってるんだなと感心させられたり。
御殿の二ノ間に面している庭園。隣接した所に天守があります。
庭に沿って進み天守の内部へ入ります。一階には江戸時代の高知城とその城下の様子を模型で再現したものが設置されていました。
一階に展示されている模型。スケールがデフォルメされて町人等のフィギュアが配置されたものと、当時の建物の配置が忠実に再現されたリアル志向のものがそれぞれ。
先程通過した詰門を天守から見下ろした所。
最上階を目指して進んでいきます。階段が急なのはどの城も共通……つい前日まで山ごもりしていたので足の疲れが残っていてしんどい。
天守最上階に到着しました、建物の規模そのものは小さめですが、小高い丘の上にある平山城なので眺めは良い。
最上階からの展望……こちらは北西方面、眼下には二ノ丸に本丸と、すぐ手前の所に本丸御殿。左奥の方に伸びる町並みは高知の市街地の西側の旭、朝倉の辺りまで絶え間なく続いています。
屋根を見下ろしながら一周。
こちらは南東側です。太平洋に面している高知の街ですが、海がある方面は高知南嶺の山々で遮られているので、一見すると周囲を山に囲まれた盆地のような印象を受ける。
南側、県庁や市役所がある官庁街方面。鏡川を越えたすぐ先には筆山公園という緑地があり、間近に山が迫っているように感じます。その麓には城主の山内家の菩提寺である眞如寺があり、すぐ裏手の公園内は元々墓所でした、
東側、入る時に通った追手門がある方面です。追手門の側の並木道を正面に進むと、先程歩いた帯屋町のアーケードに続いています。
中心街の遠望。奥の方に見えているのは前日まで歩いていた剣山系の稜線でしょうか。流石にピークの判別は難しい。
屋根越しの眺め。青銅製の鯱が見えました。
天守最上階の雰囲気。
天守を後にして再び本丸御殿へ。御殿内はちょっとした展示スペースになっていました。中でも特に見ごたえがあったのが、昔の捕鯨の様子を再現したとされるリアルなジオラマ。土佐は古くから捕鯨が盛んな地域で、安土桃山時代、当時土佐国を治めていた長宗我部元親が豊臣秀吉に鯨を一頭丸ごと献上したというエピソードもある。
帰り道です。古い建物が多く残り、中々見ごたえのあるお城でした。
歴史を感じさせる苔生した石垣。既に葉桜となりつつある桜の木の枝が側に伸びる。
お花見スポット的な三ノ丸広場。丁度満開で見頃を迎えている所ですが、コロナ禍で自粛ムードなのでシートを広げて大々的に花見を楽しんでいる人の姿は皆無。
三ノ丸の桜と天守。
築城当時のものでしょうか、石垣には樋が生えていました。高知は降水量が多い地域柄という事もあり、こうした石樋が排水の為に多く整備されている。
桜の枝越しの天守。
帰り道です。まだ午前中の早い時間帯ですが、そこそこ人の姿が増えつつありました。
徐々に遠ざかっていく高知城。
最初の広場にて、ロッカーから荷物を取り出し暫し身支度。ついでに先程回った魚の棚商店街で調達した弁当で少々遅めの朝食としました。
【移動】路面電車と土讃線を乗り継ぎ佐川へ
何度も道端から眺めていたとさでん交通の路面電車ですが、ようやくの乗車となります……高知城前電停に移動し新型の低床車が行き交う様子を眺める。
入ってきたのは吊掛駆動の旧型車でした。形式としては200形電車、とさでん交通が保有する車両としては古参の部類です。
車内も外観同様に年式相応……床面が板張りの電車なんて今日日見ませんね。しかし年式こそ古いものの車両数は多く、車窓越しの遭遇率は高い。
広告塗装を身に纏いながらも古そうな電車。600形というとさでん交通においては最多勢の車両ですが、こちらも昭和30年台の製造と年季が入っている。
朝倉電停にて伊野方面に乗り継ぎです。鏡川橋以降は併用軌道ながらも単線となり本数もめっきり減る。特に朝倉以降の区間は日中は40分に1本とローカル線並みの運行頻度となります。
乗っていた電車が朝倉止まりだったので、伊野方面に行くと伝えると乗継券なるチケットを渡されました。これを再乗車した電車で渡すと通し運賃で計算してくれるというシステム。
鏡川橋方面に続く単線の併用軌道。片側一車線という決して広くはない幅の道路の片側を路面電車が走行している……しかも単線なので逆走してくる(右側を走行する)場合もあり、電車に乗った際も車で運転した際も非常にスリルがある区間として全国的に有名だったりします。
乗り継ぎに時間があったので近くにあるJRの方の朝倉駅を覗いてみました。訪問した当時は窓口が昼休みで無人駅状態でしたが、高知県内の駅においては主要駅の位置付けで特急も停車する。
一つ先の朝倉駅前電停から線路沿いにそのまま戻ってきました。朝倉電停は単線区間にありますが、線路2本で交換が可能な構造。安全地帯が設けられていないので道路上から直接乗り降りする形となります。
朝倉電停は路面電車の電停としては珍しく駅舎……というか待合室が設けられていました。元々は営業所として使用されており、切符の販売も行われていたようです。
とさでん交通の路線図。つい先程通ったはりまや橋の電停を中心に十字のクロスとなっています。
伊野行きの電車が入ってきました。形式は800形、こちらも古いタイプの電車で、かつて下関市内で運行していた山陽電気鉄道(現サンデン交通)からの譲渡車です。
朝倉以降は本数が少ない分乗客が集中するようで、車内は殆ど満席に近いレベルで混雑していました。
伊野から朝倉の間は通票閉塞という昔ながらの閉塞方式で運行されていて、途中の八代信号場での交換の際は対向列車との通票の授受が行われます。普通鉄道を含め閉塞の自動化が進んだ現在では珍しい光景。
終点の伊野電停に到着しました。JRの方の伊野駅の駅前から僅かに進んだ所に位置しており、一つ手前の伊野駅前電停に停車する電車が非常に近い所に見える。
伊野電停は終点ながらも2線で複数の電車が入れる構造。北側にはかつて存在した車庫へと線路が伸びていますが、現在は使用されていません。
こちらが車庫方面に続く線路。本線との分岐は撤去されていますが線路は少し先まで残されている。
伊野電停付近の様子。終着駅という事もあってか小さな駅舎が設けられています。
伊野は高知と松山を結んでいた松山街道と、舟運が盛んであった仁淀川の交点に物資の集散地として形成した街です。また、古くから手漉き和紙の生産が盛んな町で、江戸期には土佐和紙という交易品として知られ、将軍家への献上品としても手厚く保護を受けていました。
明治に入って以降は土讃線(旧高知線)に先んじて開通した土佐電鉄のこの駅を介して和紙の輸送が行われるようになりますが、後に洋紙の普及、機械漉きの導入で手漉き和紙は産業としては斜陽化。現在においての伊野の和紙生産は伝統工芸品として細々と続けられているのみとなっています。
JRの方の伊野駅に移動します。全体的に改装を受けているものの、古い駅舎が残っています。
駅構内の様子。架線こそありませんが、幹線の交換可能駅として余裕を持った構造でホームも長い。特急を含めた殆どの列車が停車する主要駅……の割には人気も少なく閑散としていました。
長いホームに滑り込んできたのは短い1両の列車の窪川行き……須崎から先に向かう普通列車は1日5往復のみと本数が非常に少ない為か、車内は意外にも混み合っていました。
途中の土佐加茂駅で特急との交換待ちです。伊野駅の裏手に咲いていた桜もそうでしたが、花盛りの季節で沿線には彩りとなる花々が多い。こちらの駅で咲いているのは桜ではなく桃かな。
佐川その1 市街地までのアプローチ
途中の西佐川駅で下車しました。遠く土讃線の終点である窪川まで向かっていく列車を見送る。
西佐川駅の構内はこの付近の駅としては広々とした作りで、中線を設けられるような余地もあります。これは元々予土線(伊予と土佐を結ぶ鉄道という意味であり、現在ある予土線とは別)の分岐駅となる事を考慮したからとされます。
しかし結局の所、予土線は窪川駅(正確にはその先の川奥信号場)が分岐点となり、こちらの駅は今日に至るまで単なる中間駅という状態が続いています。特急列車も中心街近くに立地する隣の佐川駅の方に停まるので、広い構内は少々持て余し気味。
駅は無人駅という形態ですが、駅舎は自治体に譲渡され地元の観光協議会が入る等して活用されている様子。かつて窓口が存在した場所には清流と知られる仁淀川に生息する川魚が展示されていました。
駅舎の外観。古くて大きな木造のものが残っていますが、四国の駅にありがちな感じの改装を受けています……歩き始めた所で佐川の市街地方面に向かうコミュニティバスが駅前に入ってきましたが、大した距離ではないのでそのまま歩きます。
佐川の市街地に向けて進みます。西佐川駅は元々の街の中心から離れた所に位置していますが、駅が開設されてからものでしょうか小規模な集落が形成されています。
仁淀川の支流である柳瀬川に沿って歩いていきます。佐川は桜の名所として知られた町という事で、川沿いには桜が多く植えられている。
暫く歩いていると商店街っぽい町並みが見えてきました。この付近で先程も伊野の方で見かけた松山街道と合流します。佐川の古くからの市街地はこの地点から柳瀬川から分岐する春日川の上流に進んだ所に位置していますが、市街地の拡大によるものかこの付近まで家並みが伸びています……というか現在は広い平地を持つこちらの方に中心が移ってきているようで、学校を始めとした公共施設は主にこちらに多く立地しています。
松山街道は伊野の方でも記述した通り高知と松山を結んでいた街道ですが、佐川の市街地付近を除いて概ね国道33号線のルートが踏襲しています。詳しく書くと、起点の高知から伊野、土佐加茂と続き、南西方向の峠を越えて佐川の市街地、現在地の商店街、そこから北西方面に峠を越えて越知、池川、久万そして松山と続いている。という事はこの地点から街道を高知方面に遡っていくという形になります。
商店街の雰囲気。ショッピングセンターが市街地の中心とも言える場所にあり、結構賑わっている様子でした。ロードサイド店舗が主流である地方では少し珍しい。
佐川の商店街の様子。やや寂れ気味ですが完全なシャッター街という訳ではなく、営業している店舗は割と多い。
春日川を跨ぐ橋と満開の桜。奥には土讃線の踏切が見えます。
桜の名所として知られる佐川の町ですが、この川沿いの桜は特にボリュームがありました。
上流の方から流れてきた大量の桜の花びらが川面を埋め尽くしていました……そしてそれを餌だと思って食べる鯉の姿が。あんまり美味しくないとは思いますが。
春日川の上流に向かって歩いている途中、桜の並木の中に土讃線の列車が走り抜けていくのが見えました。
川沿いの道の様子……フェンスに描かれているのは先程橋の上からも見えた桜と鯉。
古来より酒造町として栄えた佐川、そのシンボルである司牡丹酒造の酒造施設群が見えてきました。
こちらは随分と年季が入った白漆喰の土蔵。水切瓦が目立つ非常に大きな建物で、こちらは専ら焼酎蔵として使用されているらしい。
煙突には若干褪せながらも司牡丹の文字が確認できました。古びていますが、どの建物も現役で使われている。
これまでメインストリートである松山街道沿いにひたすら歩いてきましたが、一本南側の道に入ってみる。こちらは『酒蔵の道』として観光地化されており、古い酒造関係の建物が両側に続いている。
酒蔵の道の様子。伝建地区という訳ではありませんが中々良い雰囲気。この一帯は司牡丹酒造の施設が多くを占めている。
年季が入った建物が多く目に付き、その建物一つ一つの印象も大きく異なる……明治末期、合併して司牡丹酒造が成立する以前はこの通り沿いに4軒の酒蔵が構えていたとの事なので、こうした建物群も元々は別の酒造会社として使用されていたものだったのかもしれません。
外観は十分に堪能しました。次はいよいよ舌で味わおうと酒蔵の中へ……あまりにも建物が多いのでどこに入るのが正解なのか。調べてみると、司牡丹酒造の実質的な小売施設である『ギャラリーほてい』という施設が牧野公園方面に続く道の四つ角にあるとの事。
しかし、それらしき建物の入口にはシャッターが降りている。近くの警備員の人に訊ねてみると今日は休みかもという回答……マジか。
酒蔵の道の西側には江戸時代における私塾であった名教館、須崎警察署佐川分署として建てられた旧青山文庫の洋館建築と、町内に存在した幾つかの古い建物が移築され並んでいる。
再び司牡丹酒造の方へ。ギャラリーほていに再び立ち寄ってみるも、やはり固く閉ざされている……丁度昼時だったのでもしかすると昼休みなんじゃないかと思い、時間潰しがてら近くの牧野公園へ花見見物に向かいました。
佐川その2 観桜の名所、牧野公園
牧野公園は戦国時代に築城された佐川城の城跡に整備された公園で、桜で有名な佐川でも屈指の桜の名所として知られています。花見シーズン真っ只中という事もあって駐車場の出入りも激しく、先程訊ねた警備員の方はその誘導要員のようでした……その入口そばにある休憩所に荷物を置かせて貰い、身軽になって出発です。
佐川城は元々は春日川の対岸にある松尾山に位置していましたが、土佐一国を束ねる長宗我部家の支配を受けていた戦国時代、当時の城主であった久武親直によって水不足を理由に現在地に移転。
江戸期に入ると、関ヶ原の戦いにおいて西軍に付いた長宗我部家は改易。土佐は藩主である山内家に支配される地になり、その筆頭家老であった深尾家が佐川城に入城。その後、江戸の一国一城令を受けて早々に廃城となりますが、城主であった深尾家はその麓の深尾土居屋敷に拠点を移し、明治頃までこの佐川の地の支配を続けたという。
少し歩くと、その深尾家の菩提寺である青源寺の建物の横手に見えてくる。
牧野公園の入口です。普段は静かな公園のようですが、桜も満開に近い頃という事で人の姿は多い。
公園内の様子。道は九十九折に続いており、その沿道には色々な品種の桜が咲いている。
牧野公園内の桜。
舗装路をショートカットする山道を歩いていると、蛇がものすごい勢いで逃げていきました。くっきりとラインの入ったシマヘビのようです。
上の方まで来ました。奥にはかつて城として整備された曲輪と思われる土台が続いています。
曲輪の手前には物見岩という一際大きな岩があります。名前の通り、かつて城であった時代には物見櫓のような役割を果たしていたのでしょう。
岩の上に攀じ登ってみると中々の絶景です。ここ数日続いた黄砂の影響で遠くの方は霞んでしまっていますが、眼下には色とりどりの桜の花、その奥に山合にうなぎの寝床のように続く佐川の街並みを見渡せます。
少し引いて桜を多く入れてみたもの。桜だけではなくツツジも咲き始めていました。
物見岩からの遠望では土讃線の線路も臨めます……暫くぼんやり眺めていると踏切の音が聞こえてきて、程なくして1両の列車が須崎方面に向けて走り去っていくのが見えた。
その後、すぐ手前にある佐川駅で列車交換したと思われる列車が高知方面に向けて遠ざかっていきました。
展望を堪能した後は花見をしながら下山します。ソメイヨシノは勿論、他にも様様な種類の桜が咲いていて見ていて飽きない。
花見を楽しんでいると特急が走り抜けていく様子が樹間から見えました。この付近の特急は専ら2両……短い。
桜の花いろいろシリーズ。
麓に下ってきました。往路で通過した青源寺の横っちょから伸びる桜。
佐川その3 土佐の銘酒、司牡丹
司牡丹酒造の施設が立ち並ぶ『酒蔵の道』に戻ってきました。牧野公園に行く前に通りがかった際にはシャッターが閉まっていた『ギャラリーほてい』ですが、昼休みだったという予想は的中したようで、戻ってくると開いていました。
もしこの施設が休みだった場合、酒造の事務所に乗り込んでお酒を買わせて貰う(交渉する)つもりでしたが、面倒事にならず何より。
ギャラリーほてい内の様子。ギャラリーというだけあって酒蔵にまつわる新旧様々なものが展示されている。お酒の方も、並べられた常温酒の他にも冷蔵ケースが一つ……司牡丹酒造は地酒蔵と言うよりは中堅くらいの規模の酒造メーカーなので火入れ酒メインだと勝手に思っていましたが、生酒も幾つかあるようです。
こちらが冷蔵ケースに収められたお酒。写真は撮り損ねましたが、幾つかの種類の試飲も可能でした(ケース右下が試飲用)。味わいとしては土佐酒にありがちな濃醇辛口の傾向のものが多いですが、低アルコール系や吟醸系など手広く作っている感じ。
購入したお酒です。四合瓶を一つだけ予定でしたが、蔵元限定酒という響きに誘惑されて二合瓶を追加で購入。
今回佐川の町を訪れた理由ですが、山本一力による時代小説『深川黄表紙掛取り帖』に土佐酒の江戸への売り込みをテーマとした話があり、その舞台がこの佐川の司牡丹だったという事で、酒好きとして機会があったら一度訪れてみたいなと前々から思っていたのでした。
佐川においての酒造りの歴史ですが、江戸時代初頭、山内一豊と共に土佐国入りした深尾重良が佐川に入る際、酒造りの職人を連れてきて御用酒を作らせた事が発端となります。その後、技術の成熟に伴って土佐酒として江戸でも評価されるようになり、酒造町としての佐川は発展を続けました。
さて、酒処の佐川で酒を味わうという目的を果たした後は次なる目的地の須崎へ向かうべく佐川駅へと歩き始めます。
司牡丹酒造の瓶詰めの様子。昭和期には土佐酒を代表する銘柄として持て囃された司牡丹でしたが、平成、そして令和の世を迎えて日本酒全体の消費が落ち着いてきた事に伴い一段落している様子。
しかし最近では日本酒の味のバリュエーションの一つとして土佐酒のような濃醇辛口傾向の酒が再評価されつつあり、酒造側も高品質な特定名称酒の製造に多くリソースを割くようになった事で、都内の地酒屋や銘酒系居酒屋でも司牡丹の銘柄が目に触れる機会もじわじわ増えつつあります。
酒蔵の道から旧松山街道を横断、短い駅前通りの先に佐川駅の駅舎が見えてきました。
佐川駅の駅舎です。上部の近代的の明り取りと他の古色蒼然とした部分のギャップが凄まじい。
こちらは特急も停まる駅という事で、この沿線では数少ない有人駅です。駅舎内には元々キオスクでもあったようなスペースに無人の観光案内所がおかれていました。前日行った穴吹駅でも見掛けましたが、デッドスペースの活用法として流行っているのかもしれません。
駅のホーム軒下のベンチには司牡丹の広告。少し前までは駅の広告に地元の日本酒銘柄というのが全国各地で見られた光景だったんですけど、この頃急速に減っているような気が……酒離れの世の中ですし仕方ない流れではありますが。
町の中心に面していて利用者の多い佐川駅ですが、一つ手前の西佐川駅と比べるとホーム2本のみという簡素な構造。国鉄時代は更に簡素で、駅舎側のホーム1本に側線という配置で旅客列車同士の交換は不可能でした。
途中の吾桑駅での列車の交換待ち。1両ばかりの土讃線の普通列車ですが、今回乗り込んだのは3両という長大編成です。学生の帰宅時間帯に重なりつつあるからでしょうか。
吾桑駅で反対側からやってきた高知方面に向かう普通列車。架線が無いからでしょうか、特急が走る幹線ながらもどことなくローカル感が漂う。
須崎散歩 高知県を代表する水産の町
須崎駅で下車しました。須崎は高知から西に進んだ所で初めての市で、県中西部を占める旧高岡郡の中心都市で、高知県を代表する港湾都市として知られています……この駅から再び街歩き。
跨線橋から構内を眺めると側線がずらりと並んでいる様子が視界に入ります。現在走っている土讃線の前身となる国鉄高知線が最初に開通したのはこの須崎駅から日下駅までの区間で、建設に際しては付近の須崎港から資材の陸揚げが行われたので、高知県の鉄道発祥地という紹介パネルが駅前にあります(実際は土佐電鉄の方が開通は早い)。
現在でも高知県内の主要駅の一つという位置付けの駅で特急も全列車が停車。普通列車も高知方面からやってきた大半がこの駅で折り返すという運用……反面、ここから窪川方面に向かう普通列車は1日5往復のみに激減します。
広い構内を眺めながら改札口へ。須崎は絶滅種であるニホンカワウソが最後まで生息していた地でもあり、それをモチーフにしたご当地ゆるキャラの『しんじょう君』が改札口の横断幕に描かれている。
駅前に出てきました。国鉄時代からの無骨なコンクリート駅舎が残っていますが、この訪問から8ヶ月後の2021年12月に大掛かりな改装を受け、現在では洋風仕様の駅舎となっているらしいです。
短いですが駅前からアーケード街が伸びています。その突き当りには何やらノスタルジーな名前の食堂があり、店先の幟には鍋焼きラーメンの文字が……須崎には鍋焼きラーメンという土鍋で炊いたラーメンがB級グルメとして存在しており、観光の売りにしているらしい。
須崎は高知を代表する水産の町……だからなのか猫を多く見かける。
須崎の中心街の様子。人口2万人と市にしては人口が少ないですが、雑居ビルや看板建築の商店が立ち並ぶ様相は、かつての賑わいを想起させられる。
中心市街を東西に横断する大通りに差し掛かりました。川端シンボルロードという愛称が付けられている。
佐川では酒を調達した。では次に調達するのは酒を飲む為の肴であり魚である……という訳で、良さそうな雰囲気の魚屋を見繕う。
大通りに面した所に立地する山崎鮮魚店のお魚……今宵の肴はここで調達。タチウオにイシダイ、ブリと丸のまま並べられている様は圧巻ですが、一匹買いは不可能なので柵になっているものから選ぶ。何を買ったのかは後程。
大通りをマイペースに横断する猫。
肴を調達するという目的は早くも達成されましたが、時間に余裕があるので少し街歩きを楽しむ事に。
先程の川端シンボルロードの南側、古くからの商家の建物が立ち並ぶ一角に来ました。須崎の町は新荘川の河口域に位置しており、その立地から流域で生産された物資の集散地として発展。湾に面している事から漁業も盛んで、江戸時代には土佐鰹というブランドで鰹節の産地として江戸や上方に認知されるようになり、そうした交易品を扱う商人達が多く集まっていました。
須崎の町並み。この付近は碁盤の目のように整然とした区割りですが、そのうち本町通り沿いは商家の建物が多く見られ、かつてのメインストリートだったのでしょう。少し商店街っぽい雰囲気なのがその名残でしょうか。
現在の須崎の商業的な中心は市北部の平地が多い大間、多ノ郷方面に移っており、先程の駅前も含めて一帯は人通りも車通りも少ない。
市街地のほぼ中心にある須崎八幡宮。鎌倉時代創建の神社で境内は広々としている。
かつてこの神社に奉納されていた神輿が江戸期の宝永地震により発生した津波によって流され、行き着いた伊豆国(現在の松崎町岩地)では豊漁が続いた……そうした噂が耳に入り、はるばる伊豆まで神輿を迎えに行ったという記録があるとか。中々に信じがたい話ですが、先の東日本大震災で日本からの大量の漂着物がアメリカ西海岸に辿り着いた事を考えると、あながち伝説という訳でもなさそう。
神社の入口にはノルマントン号事件の碑が。ノルマントン号事件と言えば、横浜から神戸に向かっていたイギリス船籍の貨物船が和歌山の串本沖合で沈没した事故で、その際に白人のみが救出され、日本人の乗客は一人も助けられなかったという事実が後々に問題となり裁判に発展。しかし幕末に結んだ不平等条約において治外法権が認められた事でイギリスによる司法によって裁かれる事となり、結果的に船長は無罪となった……不平等条約改正の機運が高まる発端となった事件でした。
その石碑がどうして須崎にあるのかと疑問に思ったのですが、その乗客の中にここ須崎の出身者が居り、石碑はその供養の為に建てたものとされる。
更に西の方へと進んでいく。旅館として使われていたと思われる建物が残っていたり、味噌や醤油の古い蔵ががあったり……古い町並みという訳ではないですが、ぽつぽつと気になる建物が。
現在は須崎市内に酒蔵はありませんが、かつては存在していたらしくこのような標柱が残されていました。魚が美味しい街ですから、魚に合うお酒を作っていたんでしょうね。
途中からお大師通りという道に入り、そのまま西の方に進んでいく。道の名前は、古くからの須崎の市街地の西端にある大善寺の大師堂にちなんだもの。
大善寺は小高くなった丘陵部の上にあり、麓の道はそれを避けるように曲がりくねっています。
こちらが大善寺で入口に大師堂が建っています。階段を登った所に鐘楼が見え、その奥に本堂があるようですが……折角なので登ってみましょう。
崖の上の鐘楼を見上げた所。
大善寺の境内に入りました。現在の須崎の市街地が広がっている辺りは元々は新荘川から流れてきた土砂によって作られた砂州で、それが発達する以前は小高くなったこのお寺の辺りは岬のような場所となっていました。
かつてはその先端に二ツ石と呼ばれた二つの巨岩があり、干潮時は街道のルートの一つとしてその間を通行していたのですが、海沿いを歩く為に海難事故が絶えず、土佐の親不知とも呼ばれ交通の難所として知られていました。そうした話を当時四国の霊場開基で行脚していた弘法大師が聞き、この地で交通安全を祈願した事で後に大師堂が建立された。
弘法大師像越しに須崎湾の海面を臨む。かつての難所であった二ツ岩は砂州の堆積を始めとした地形の変動により、現在は地中深くにあるとされています。
こちらは反対側の家並み。現在使われているのかは謎ですが、超ミニのケーブルカーが設けられていました。
鐘楼の辺りから眺める須崎湾。この付近はリアス式海岸で陸地が複雑に入り組んでいる。
湾を通行する船を眺める。セメント運搬の貨物船らしいです。須崎港ではセメントや石灰の取扱が多く、また湾奥部の多ノ郷の方には大規模なセメント工場が立地している。
再び街中に戻ります。この付近がかつての須崎の市街地の西端に当たる場所(西町)、この付近にも古い商家の建物が幾つか残る。
須崎駅から続いていた街並みから抜けて郊外へ。小高くなった所を走る土讃線の線路が近付いてきました。
【移動】土讃線の終着窪川、そして県境を跨ぎ宇和島へ
土佐新荘駅に到着。視界に入ったのは、先程須崎駅で見掛けたゆるキャラの『しんじょう君』。その由来となった新荘川の名を冠しその河口域に位置する駅という事で、駅施設がラッピングされています……といっても雨避けとなる上屋しかない寂しい駅ですが。
須崎の市街地近くにありながら中々の列車本数です。以前来た時はこの2倍近くあったような気がするんですけど、この10年くらいで激減してしまったらしい。
その1日5本の内の貴重な1本が入ってきました……やはり1両編成。帰宅時間帯だからか割と混雑している。
途中の土佐久礼の辺りまで海沿いを走ります。線路はリアス式海岸の凹凸の地形を貫くように続いており、車窓には山と海とトンネルの暗闇が交互に映し出される。
土讃線の終着駅である窪川駅に到着しました。本日は宇和島までの移動としているので、この駅で予土線に乗り換えとなります……向かい側のホームには既に乗車する予土線の列車が入っている。
窪川駅の構内。土讃線の終点であり、土佐くろしお鉄道中村線の起点、予土線の実質的な分岐駅でもあるので、コンパクトながらもターミナル駅っぽい雰囲気。
こちらの駅舎内の遊休スペースは新しい感じの食堂となっていました。四万十川名物の天然鰻も扱っているとの事で惹かれましたが、今回は乗り換え時間が短いので見送り。
駅の外に出てみる。構内は共用していますが、JRと土佐くろしお鉄道で駅舎が異なります……次に乗るのはJRの方の予土線ですが、隣の若井駅までの一駅間のみJRではなく土佐くろしお鉄道中村線の所属で18きっぷが使用できない。その為、わざわざ土佐くろしお鉄道の方の駅舎まで買いに行ったのですが、窓口は無人で買えず。結局、着駅の宇和島駅で申告して支払いました。
駅前の様子。窪川は四万十川中流域の中心都市で、自治体の名前も四万十川に肖った四万十町。隣には隣接して四万十市があったりと伊豆半島のカオスさ程ではありませんがややこしいです。確かに四万十川って全国的にネームバリューありますけど……他の自治体と重複してしまうくらいなら他の名前付ければと思ったり。
窪川の町は元々、高知と中村を結ぶ中村街道とこの町から宇和島を結ぶ窪川宇和島街道との分岐点に集散地として栄えた町で、高知、中村、宇和島方面の街道がぶつかる交通の要衝でした。一帯は四万十川の流域の変遷に伴って作られた平地が広がっており、古くから稲作が盛んな米どころとして知られている。
他、市街地には四国霊場88箇所の37番札所の岩本寺が所在しており、お遍路さんの姿も多い。
【移動】四国一のローカル線、予土線
既にホームで待機していた予土線の列車に乗り込みます。日没近くなので1両の列車はガラガラですが……何やら人ならざる者の姿が。
この車両は模型や食玩の造形で知られる海洋堂とタイアップした列車で、その名も『カッパうようよ号』。名が示す通り、車内には沿線のカッパ伝説に因んだ大小のフィギュアがショーケースに展示されていました。
線路は暫く四万十川に沿っています。山を分け入るように進んでいきますが、実際は下流に向かっている。
途中の土佐大正駅で暫しの停車です。江川崎までの区間は昭和49年の開通と他の区間と比べると新しい。既に国鉄の経営悪化が顕在化している頃なので、ホームを始めとした駅設備は非常に簡素な作り。
日が暮れてきたので食事とします。まずは司牡丹で購入したお酒の二種類を味見……一つは蔵元限定のしぼりたて純米原酒で、もう一方は『二割の麹が八割の味を決める 』という、55%まで磨いた山田錦を麹として、掛米に飯米であるアケボノを70%の低精白で使用したという変わり種。
どちらが日本酒として洗練された味わいかと言えば前者の方なんですが、後者も面白いお酒でした。際立った濃醇辛口ですが、麹に吟醸規格の山田錦を使用しているのでメリハリがあり、土佐酒を今風仕様に突き詰めたらこういう形になるのか……といった、ある種の感心を抱きました。試飲で色々と味わった中、土佐の魚にはこれだろうと思って真っ先に選んだ。
今回買ったお酒は両方共ネットで取り扱いしているお店を見つける事ができなかったので、一種類だけ司牡丹酒造のお酒を紹介。船中八策は司牡丹とは別ブランドの銘柄で、ラベルに超辛口と記載されている通り辛口の傾向の多い同酒造の中でも特に際立った辛口で、日本酒度は+8あります。辛口でも新潟の淡麗辛口とは違う如何にも土佐酒の辛口といった感じのお酒なので、高知のお酒を一度も飲んだ事がない方にはおすすめです。
リンクで紹介しているものはレギュラーの火入れ純米ですが、季節限定で生酒やひやおろし等といったラインナップがあります。個人的には冬季限定のしぼりたて(純米生原酒)が好みです。
須崎の鮮魚店で調達した刺身。醤油はビニールに入れて貰いました。
魚の種類はグレ(メジナ)とカツオの炙り。どちらも抜群の美味さで、特にカツオは関東では中々味わえないレベルでした。グレの方も淡白で日本酒が進む。
お酒を飲みながら窓越しに流れる風景を眺めていると有名な駅が。如何にも珍妙な駅名ですが、ここも由来は平家の落人集落で、平の上の棒を一本下げて半としたという説があります。
周囲が暗くなった頃の車内風景。乗客は自分含めて人間二人とカッパ二匹。
途中の江川崎駅で暫く停車となります。ここは予土線においてのかつての中継地点で、この駅まで開通してから窪川方面に線路が伸びるまで、20年以上もの間終着駅でした。現在では中間駅ですが、駅の構内は終着駅時代の名残で広々としており、この駅を始発終着とする列車も多い。
有人駅時代の比較的大きな駅舎が残りますが、10年くらい前に無人化されています。周辺は旧西土佐村の中心で、江川崎の地名は2013年に当時の日本最高気温41.0℃が観測された事で一躍知られる事となった。
駅の時刻表です。窪川方面はこの駅を境に半減し1日4往復という少なさ。JR四国の路線としては最も本数が少ない区間とされる。
次第に夜闇に飲まれつつある江川崎駅。薄暗がりの中、ホームに佇むディーゼルカーの煌々とした灯りが安心感のようなものを与えてくれる。
途中の吉野生駅で列車交換。有名な新幹線型の車両が反対側から入ってきましたが、暗い中なのでよく見えず。
終点の宇和島駅に到着しました。高松から松山方面に伸びている四国随一の幹線である予讃線の終着駅でもあり、南予地方で最大の都市である宇和島市を代表する駅という事で駅の規模は大きく、勿論駅員も常駐しています。
到着したホームには予土線を走る3種類の車両が紹介されていましたが、右のトロッコのみ本日見掛けませんでした。
駅の内部の様子。既に夜も更けた時間帯なので人気はなく閑散としています。
午後8時を過ぎた時間帯、駅の外に出てみると辺りは暗闇に覆われていました。南予最大の都市とは言え、人口規模的に県庁所在地程の賑わいはありません。
現在の宇和島の町は江戸初期、伊達政宗の庶長子であった伊達秀宗が、当時の将軍である徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられた事で板島丸串城(当時の宇和島城)に入城、その後の城下町整備によって作られた街並みが原型となります。市内には現存天守が残る宇和島城があり訪れる観光客も多い。
宇和島で有名なものとして闘牛があり、江戸の藩政期には既に大衆娯楽として定着していました。現在でも市内には闘牛場があり定期的に開催されるとの事。名実ともに街のシンボルのようで、駅前には闘牛を模したブロンズ像が佇んでいます。
次回記事『9日目 肱川水系の古い街』に続く。