西中国山地登山旅行7日目 近江八幡から竜王方面の観光
西中国山地登山旅行の最終日となる7日目は東京までの帰路を辿る一日となりますが、午前中は時間的余裕があったので、前々から行きたいと思っていた滋賀県の近江八幡の観光とその周辺の文化財巡りに当てました。前泊した京都から東海道本線で滋賀県入りし近江八幡に到着した後は前日同様にレンタサイクルを利用、まずは苗村神社や鏡の宿といった隣接した竜王町内の国宝や重要文化財を巡り。その後は重伝建にも指定されている近江八幡の旧市街地を見物しました。
前回記事『西中国山地登山旅行6日目』からの続きです。
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目次
- 朝の京都
- 近江八幡&竜王その1 八幡社と椿神社
- 近江八幡&竜王その2 龍王寺と妹背の里
- 近江八幡&竜王その3 苗村神社
- 近江八幡&竜王その4 鏡の宿
- 近江八幡&竜王その5 近江八幡の古い街並み(新町通り)
- 近江八幡&竜王その6 八幡堀と日牟禮八幡宮
- 【移動】東京までの帰路
朝の京都
朝の京都駅前です。この日は雨予報だったので降り方が酷いようであれば早めに切り上げて帰るつもりだったのですが、雨雲レーダーを確認した所、琵琶湖の周辺だけ天気が持ちそうな感じ。
当初の予定では中京圏、取り分け当時放映していた大河ドラマ『どうする家康』の題材である徳川家康と縁の深い岡崎や安城を回るつもりでしたが、そちらは大雨との事だったので滋賀県内の観光に切り替えたという次第となります。
京都駅からすぐ先にある東本願寺。京都も久しぶりに回ってみたいとは思っているのですが、インバウンド観光客によるオーバーツーリズムが問題になっているこの状況下、中々足が向かないと言いますか……行きたい所は沢山あるんですが。
京都駅に戻ってきました。この朝早い時間帯ではそこまで観光客の姿は多くはないです。
日本一長いホームとして知られる京都駅0番ホームを見下ろす……全長558mあるとか。京都駅は駅ビルこそ近代的なんですが、構内は昔ながらの地上駅で大正時代に作られたホーム上屋が未だに残っている等、意外と昔ながらの雰囲気が残っていたりします。
近江八幡&竜王その1 八幡社と椿神社
京都駅から30分強の小移動でこの日の観光の拠点となる近江八幡駅に到着。朝ラッシュ時間帯なので電車も駅も結構な混雑でした。
こちらの駅に降りるのは、ここから接続する近江鉄道の沿線を観光する際に乗り換えた時くらい。街を歩くのは初めてなので楽しみです。
駅前の駐輪場でレンタサイクルの受け付けを済ませました。こちらが本日共にする自転車なんですが、変速機も何も無い如何にもなママチャリ……一番スピード出ないタイプですね。しかし1日500円と格安なので文句は言えません。
近江八幡駅の駅舎。洒落たデザインの橋上駅舎ですが、建てられてから既に40年という事で少しばかり年季を感じさせます。駅周辺はショッピングセンター等があり割と賑やかな雰囲気ですが、元々の近江八幡の市街地からは若干距離がある。
まずは自転車を走らせて西方向へ。途中で越えた白鳥川の川岸の桜は見頃でした。
この日は昼過ぎまでひたすら自転車移動が続くので前もって食料調達。壱製パン所という、なんだかいい感じの店構えのベーカリーがあったのでこちらで。
惣菜パン系が豊富だったので唐揚げサンドとカレーパン、そしてクリームパンを購入。店先にはオリジナルデザインの飛び出し坊や……これ見ると滋賀県に来たなって感じがします。発祥は隣の東近江市(旧八日市市)らしいですね。
南進し東海道本線の踏切、東海道新幹線の高架橋と越えていきます。家並みは途切れ、田んぼが広がる長閑な光景に。
先程潜った東海道新幹線の高架橋を振り返る。丁度新幹線が横切っていきました。
旧中山道沿いの馬淵という集落に入りました。如何にも旧街道を彷彿させる微妙な道幅。建物も古いものが多く残っている。
馬淵の集落内にある八幡社。平安時代、源義家が奥州への出陣の際、熱病に罹った馬をこの集落の淵で水を飲ませて休ませた所快癒し、この地に八幡宮を創建したのが草創とされています。
境内の中央部に建つ拝殿。四面が柱のみで開放感のある構造。
奥に見えるのが檜皮葺の本殿。こちらは安土桃山時代の建築で、戦国時代に織田信長の軍勢による焼き討ちに遭って消失、その後に再建されたものと伝わります。こちらの本殿は国の重要文化財の指定を受けている。
境内の桜の木。
境内から鳥居を眺めた所。その奥の所で左右に横切っている道路が旧中山道です。
古い家々が立ち並ぶ馬淵の集落内を進む。古い建物があまり残っていない関東では中々見られない風景。
田んぼの中にぽつんと小高くなった所が……調べてみると供養塚古墳という前方後円墳のようで、近接して地蔵堂が建っている。
千僧供の集落に入りました。ここも古くからの集落のようで、集落内に歴史資料館が建っていましたが休館中でした。調べてみた所、日曜日しか開いていないとの事。
こちらの集落は元々は延暦寺の荘園だったとされ、千僧供という地名も延暦寺が行っていた千僧供養の為の料地として使用されていた事が由来とされています。
千僧供から岩倉の集落に向かって進んだ際の途中にあるのが椿神社。明治時代までは専ら十禅師権現の名で呼ばれた。平安時代、延暦寺と関係の深い日吉山王(日吉大社)の上七社である樹下神社(十禅寺)がこの場所に勧請された事が発祥とされています。
こちらの椿神社神門である四脚門は室町時代の建築。県指定文化財とされているようですが、だいぶ朽ち気味なのが気がかりでした。
椿神社の境内の様子。山を背後にした形となりますが、元々は古墳だったようです。
近江八幡&竜王その2 龍王寺と妹背の里
千僧供を抜けて岩倉の集落。岩倉山の麓に位置するこの集落は古来より石工を主産業としていたとされ、この地の石工衆は三条大橋や彦根城等といった建築にも参加したという。
橋の欄干に立つ大海人皇子(天武天皇)像で、少し先にはその妃であり歌人であった額田王の銅像もある。
二人は蒲生野と呼ばれる場所で行われた遊猟の際に『あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る』、『紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも』の歌を詠みました。この二首は万葉集の相聞歌では代表的なものとして紹介される事が多いらしいのですが、その舞台となった蒲生野というのは琵琶湖東岸のこの辺りの事とか。
橋の上から日野川の川面を眺める。
橋を渡った先には雪野山という山があり、その山裾にへばりつくように集落が広がっている。
更に日野川の上流に向かって進んだ所にあるのが龍王寺。自治体の名である竜王町の由来となった寺院で、奈良時代に行基によって雪野寺として建てられた事が草創とされます。
龍王寺の境内の様子。前身となる雪野寺はこの背後に存在し、その遺構は県指定史跡に指定されている。
こちらは奈良時代作の梵鐘、野寺の鐘。重要文化財に指定されている。
龍王寺から更に川沿いに進んでいきます。桜と菜の花の組み合わせがいい感じ。
こちらは妹背の里。先の蒲生野の遊猟の時代(飛鳥時代)をテーマにした公園施設で、先程も銅像のあった大海人皇子と額田王の顔パネルが入ってすぐの所にある。
妹背の里の全景。園内は広々としておりキャンプ場やバンガローもある。時期柄、花見客の姿がちらほらありました。
こちらの建物内では竹灯篭の展示が。
池の上には鯉やアヒルの姿あり長閑な雰囲気。
桜の花びらの中を泳ぐアヒル。
居心地の良い公園だったので、こちらで少し遅めの朝食としました。
近江八幡&竜王その3 苗村神社
妹背の里で食事休憩を取った後は再々度日野川を渡り、反対側の川守の集落へ。
この辺りは一部の道を除いて交通量が少なく、自転車で回るには長閑で良い道でした。
綾戸という集落に入った所で、今回の観光のメインの一つである苗村神社が見えてきました……屋根の大きい楼門が遠目からでもよく見えます。
苗村神社の鳥居から参道へ入る。苗村神社は西本殿と東本殿が道路を挟んでありますが、まずは国宝の社殿が残る西本殿へ。それなりに観光客も来る神社のようで、広い駐車場が隣接して整備されていました。
楼門と、その手前にある石造りの小さな太鼓橋。
苗村神社楼門。インパクトある非常に大きな茅葺屋根が印象的。こちらは室町時代中期の建築で重要文化財指定。神仏習合の名残か雰囲気としては寺院風で、内部には不動明王像が置かれています。
境内に入って東側にあるのが神輿庫。こちらも室町時代中期の建築で重要文化財指定。装飾も無くシンプルな印象を受ける。
こちらが苗村神社の西本殿。鎌倉時代後期の建築で国宝に指定されています。玉垣内に左側から八幡社、西本殿、十禅師社という並びで3つの社殿が建つ。ちなみに両側の2つの社殿は楼門や神輿庫と同時期の室町時代中期の建築。
苗村神社は古くは長寸神社と称しており、平安時代編纂の延喜式神名帳にはその名で記載があります。
神社の由緒としては、この地方を開拓した人々の先祖を祀るなどした祭祀の場がいつしか神社という形となったと伝わっているようです。実際、神社の周辺(特に東本殿の周辺)には古墳が多く、その時代の出土品も多いという。
西本殿については、平安時代に元々の苗村神社(長寸神社)であった東本殿から遷座し、その際に社殿を改めて造営、予てより存在した東の本殿に対して西本殿と呼ぶようになった事がその由来という。
西本殿を別アングルから。
御朱印と西本殿。平日は対応していないらしいのですが、偶々人がいらっしゃったので運良く頂けました。
境内から拝殿と楼門を眺める。
境内の全景。
こちらの奉納酒は松の司でした。地酒界隈では割と知られた銘柄で、この苗村神社の近所に製造元である松瀬酒造があるらしいので立ち寄ってみたかったのですが、流石に4合瓶4本担ぐのは厳しいので残念ながらスルー……またの機会に。
次に向かうのが道路を挟んだ反対側にある東本殿で、平安時代に西本殿に遷座する以前の苗村神社(長寸神社)の境内となります。ちなみに鳥居には旧来の長寸神社の名称の方が掲げられていました。
木々が生い茂り鬱蒼とした境内。一帯は東苗村古墳群として8基の円墳が見つかっているようです。
森の中に佇む苗村神社東本殿。拝殿を持たない簡素な構造ですが、こちらも室町時代中期の建築で重要文化財指定。両脇には境内社である佐々貴社と天神社が並ぶ。
苗村神社の東西本殿の見物を終えたら北上し島という集落へ。入口の看板には神馬が地名の由来と書かれています。
その島集落にある八幡神社。重要文化財にも指定されている八幡神社宝塔があるとの事ですが、実際は集落外の少し離れた所にあります。
こちらが八幡神社宝塔……田んぼと田んぼの境目となる凄い所に建っており、コンクリートの細い境界塀のような所を平均台のように渡ってアクセスします……一瞬入るのを躊躇いましたが、解説板も立っているので大丈夫だろうと判断。
八幡神社宝塔の解説板。鎌倉時代後期に作られたもので重要文化財指定。表面には正和五年(1316年)の刻印があるという。
宝塔とその周辺の雰囲気。元々は先程の八幡神社の御旅所だったらしいですが、少々驚きの立地の重要文化財でした。
近江八幡&竜王その4 鏡の宿
八幡神社宝塔を見物した後は惣四郎川に沿って北上。辺りは田園風景が広がります。
途中で祖父川と合流し、暫くはそれに沿って進んでいく。川向こうに見えるのは須恵の集落で、付近には八幡社がある。
須恵は古代の陶器である須恵器を由来とした地名で全国に幾つか分布しています。後に向かう鏡神社にはその製陶技術を伝えた天日槍が祀られているので、何かしらの関係はありそうですね。
更に北上した先が西川の集落。こちらの集落内には吉水神社がある。平野部に同じくらいの集落がぽつぽつと点在し、その中に神社と寺院が一つずつ建つ……という配置が半ば形式化しているように感じました。
西川の集落内の様子。区割りも中世とかそれ以前から変わっていないのでしょうか、蛇行した細い道が集落を貫くように通されている。
その西川の集落内にはライフショップなかまつといういい感じの惣菜屋さんがあったので、こちらで昼食の調達。つまみになりそうな惣菜も幾つかあったので少々気になりましたが、小さなサブザックで回っているので残念ながら買い込めず。
途中から国道8号線方面へ。こちらの道路は基本的には旧中山道に沿った道ですが、所々で旧道が分岐しているのでそちらを経由して進んでいく。
その旧道に入った所がかつて鏡の宿と呼ばれた宿場町でした。旧中山道のルート上となった江戸時代には正式な宿場町には指定されていませんでしたが、守山宿と武佐宿の間の宿として本陣と脇本陣が整備され、参勤交代の際には大名が休息に利用した事もあったという。
旧街道沿いには源義経元服の地という幟が立っていました。奥州の藤原秀衡の元に向かっている最中、この地で元服の儀式を行ったという。
国道沿いにある道の駅かがみの里。その外周に沿った細い道を進んでいく。
更に山に入った所はかつて西光寺という寺院があり、僧坊300を擁する大寺院だったとされる。この寺院も織田信長による焼き討ちに遭い、現在ではその入口に小さな仁王堂が建つのみとなっています。
西光寺の境内だったと思われる広がり。途中、中世城郭の星ヶ崎城方面に続く山道が分岐しています。近隣の観音寺城を居城としていた六角氏の支城として配下の鏡氏によって築城されたという。
案内看板の奥に進んでいくと上屋のある石灯籠が見えてきました。
こちらは西光寺の石灯籠。室町時代初期の作で重要文化財指定。西光寺の鎮守であった八柱神社(現存しない)にあったものを現在地に移築、保存したものとされる。
その石灯籠のすぐ近くにあるのが鏡神社宝篋印塔。鎌倉時代後期の作で、こちらについても重要文化財指定。鏡神社と宝篋印塔が立っている場所とでは若干の距離がある。
宝篋印塔とは元来は宝筐印陀羅尼という経典を収める為の塔とされていますが、実際には供養塔等として建立される事が多かったようです。実際、この宝篋印塔の下にも石室があり、そこから人骨が見つかっているという。
宝篋印塔と石灯籠の周辺の風景。訪れる人もそこまで多くはないのか、ひっそりとした雰囲気でした。
その広場の脇に立ち並ぶ幾つかの地蔵。だいぶ朽ちていますが、西光寺が存在した時代のものでしょうか。
西光寺跡の境内から入り口を見下ろした所。
道の駅から道路を挟んだ向かい側にある鏡神社に移動しました。その入口には源義経の元服の儀式で使用したとされる烏帽子掛けの松がありますが、明治期の台風で倒壊してしまい現存するのは幹のみとなっています。
鏡神社の参道の様子。御幸山(宮山)の山麓部にあり、全体的に木々が多く鬱蒼としている。
鏡神社の境内の様子。創建は不詳であるものの、新羅からの渡来神である天日槍を祀る神社として古くから崇拝されている。ちなみに鏡という地名は祭神である天日槍が神宝となる日鏡をこの地に埋めた事がその由来とされている。
石段を登った所から境内。八幡社や苗村神社と同様の吹き放ちの拝殿が中央部に建つ。滋賀県の神社でよく見られる形態らしいです。
こけら葺の鏡神社の本殿。こちらは室町時代の建築で重要文化財指定。
その境内には背後の御幸山に続く山道が延びています。元々は宮山という名でしたが、大正天皇の行幸の際に現在の名に改められたという。
山道の途中から鏡神社の境内を見下ろす。
室町時代建築の本殿を望遠で。
御幸山の山頂へと続く山道。山頂までの距離はそこまで長くはなく、数分程度といった所。
道中ではツツジが咲いていました。
御幸山の山頂。全体的に木々が茂っていますが少しだけ展望も楽しめます。ベンチも置かれているので休憩スポットとしては良い感じ。
ここで先程ライフショップなかまつにて購入したオムライスを……シンプルかつ素朴な感じですがハンバーグが乗っているのが高ポイント。
近江八幡&竜王その5 近江八幡の古い街並み(新町通り)
鏡の宿周辺の観光を終えた後は近江八幡方面へと戻ります。暫くは国道8号線に沿って進んでいく。
途中で北側に折れた所にあるのが旧中山道沿いの東横関の集落。祖父側を挟んだ西側のには同じく旧街道沿いに西横関という集落がありますが、現在はその間を結ぶ橋はなく分かたれています。そのまま更に北上して小船木町の交差点へ。
八幡山(鶴翼山)が近付いてきました。これから向かう近江八幡の町はその山麓部に集積しています。
白鳥川を渡り小船木町を進む。まだ伝建地区には入っていませんが、古びた町家のような家々も既に幾つか。
小船木町の街並み。昔ながらの丸ポストが建つ。
この小船木町の界隈では、二階部に神棚のようなものが掲げられている家が幾つか見られました……調べてもあまり情報がないので少し気になる。
願成就寺の参道と合流する所で東に折れます。通り沿いには白漆喰の町家も。
白壁続く北元町付近の家並み。
こちらは本願寺八幡別院。かつては安土城の城下にありましたが、豊臣秀次によって八幡山城が築かれ、城下町である近江八幡の町割が整備された際に現在の地に移転したとされています。
付近には朝鮮人街道と呼ばれる、江戸時代に朝鮮通信使が往来していた事が名の由来となる道がありますが、この本願寺八幡別院は朝鮮通信使の昼食所として利用されたという。
本願寺八幡別院から東に進んだ所の池田町の街並み。明治から昭和にかけて、日本国内において多くの洋風建築を手かげたウィリアム・メレル・ヴォーリズによる住宅が幾つか立ち並んでいる。
ちなみにヴォーリズはメンソレータムの日本での販売を手がけるヴォーリズ合名会社(後の近江兄弟社)の創立者の一人でもあり、その近江兄弟社の本社は現在でも近江八幡に立地しています。
洋風建築の八幡小学校。こちらも一見すると古そうな建物ですが、ヴォーリズ建築ではなく平成に入ってからの再建という。
八幡小学校から小幡町通りを跨いで更に東側へ、朝鮮人街道と呼ばれた道を進んでいく。
新町通りと交差してからはその道に沿って北上していきます。この新町通りの道沿いが重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている近江八幡の中でも特に古い建築物が残っているエリアとされています。
新町通りを進んでいく。かつての商家のものと思しき白漆喰の町家が立ち並ぶ。
ヴォーリズ建築である郷土資料館が面した交差点。元々は警察署(旧近江八幡警察署)の建物だったという。
その郷土資料館から通りを挟んだ向かいに建つのが旧伴家住宅。江戸後期の商家の建物で、明治以後は学校、図書館等に利用された。
更に北上すると街並みも重伝建地区っぽい小綺麗な雰囲気になってきました。
近江八幡は安土桃山時代に築かれた八幡山城の城下町を基礎とした町で、城下町の整備に際しては、商人を始めとした町人の多くは近隣の安土城の城下から移住させられたとされています。安土では織田信長の時代から楽市楽座(商取引の自由化)の施策が行われていましたが、近江八幡においてもそれが踏襲されたという事もあり商業都市として発展。
その後、八幡山城の方は築城から僅か10年で廃城となり城下町も一時は衰退したものの、この地に住まう商人(近江商人、狭義では八幡商人)の手によって再生され、江戸時代以降も近江国では随一の規模の商業都市として繁栄は続きました。
右の建物は煙草や麻織物を扱った商家、森五郎兵衛邸。新町通りでもこの界隈が古い建物の密集度が高く、街並みに統一感がある。
二階部の飾り格子が印象的な町家。
新町通りに沿って北上していき、広い道幅の大杉町通りを越えた所にある地蔵尊。『おねがい地蔵さま』という幟が立っている。
新町通りの北端に到着、中々に見応えある街並みでした。近江八幡では他に永原町通り付近も古い町家が多く残っているらしいのですが、今回は時間の関係上そちらの方には行けませんでした。
近江八幡&竜王その6 八幡堀と日牟禮八幡宮
新町通りの北端部からすぐ東側に入った所には八幡堀があります。八幡堀は運河として築かれた堀で、かつては八幡山城の外堀という役割も兼ねていました。
八幡堀の景観。この辺りは近江八幡観光のハイライト的なスポットのようで観光客の姿も多い。
川縁までは階段が続いており、降りられるようになっています。
八幡堀と往来する遊覧船。
川縁に降りてみると橋の下の所に何やら気になる足場が……こういう道を見るとつい通りたくなる。
八幡堀の川縁の雰囲気。
やや観光地っぽい雰囲気ですが、ロケーションとしては良い感じでした。
大杉町通りに出た所でヴォーリズが創立した近江兄弟社が本社があります。元々の代表商品であったメンソレータムは現在は商標が他企業に移っており、現在ではメンタームの名の軟膏を製造、販売している。
日牟禮八幡宮の鳥居の前に建つのが白雲館。明治時代に八幡東小学校として建てられたもので、見るからに和洋折衷の擬洋風建築。現在は観光案内所として使用されています。
日牟禮八幡宮への参道となる白雲橋から見下ろす八幡堀。水運が盛んであった時代はこの川縁から荷物の積み出しを行っていた。
散りかけの桜と八幡堀を行く遊覧船。
近江八幡の名の由来となった日牟禮八幡宮へと向かいます。この辺りも観光地っぽい雰囲気。
こちらが日牟禮八幡宮の楼門(随神門)と拝殿。13代天皇である成務天皇の即位の際(成務天皇元年、西暦131年)に創建され、大嶋大神(大国主神)を八幡山の山頂に祀ったのが草創とされています。
日牟禮の名の由来ですが、応神天皇が琵琶湖の洋上にある奥津島神社の参拝からの還幸の際、設けれた御座所から日輪の形が2つ見え、日群之社八幡宮と呼ばれるようになったという伝説に基づいています。
日牟禮八幡宮の本殿。平安時代に宇佐神宮の分霊を勧請され、併せて現在地に社殿の造営が行われたという。現在の社殿は江戸中期の再建。
境内は背の高い木々が多いです。この杉の木の御神木もその一つ。
日牟禮八幡宮の境内風景。八幡堀やロープウェイ乗り場の周辺が観光客で賑わっている中、こちらの神社は人の姿が殆ど無く、別世界のように静まり返っていました。
恒例の奉納酒チェック。当然の事ながら地元滋賀県の銘柄が多いですが、灘や伏見といった少々離れた有名所の銘柄も少なくありません。この地を発祥とする近江商人がそちらの方(上方)を拠点とした商売を行っていたという事も関係がありそうですね。
日牟禮八幡宮の見物を終えた後は駅まで戻りますが、なかじま酒店というなんだか独特の雰囲気の酒屋さんが門前の所にありました。こちらでは鮒寿司も扱っているようなのでお土産に購入。
お酒の方は松の司の別誂え商品なんかもあったりしたので、次訪れた時に是非とも……と思っていたのですが、残念ながらこちらの酒屋さんは2023年内に閉店してしまったという。
こちらがなかじま酒店で購入した琵琶湖産の子持ちニゴロブナを使用した鮒寿司……決して大好物という訳ではないのですが、何故だか偶に食べたくなる珍味です。
仲屋町通りを南下していきます。時間の都合上、古い建物が残るとされる永原町通りには寄れなかったのですが、こちらの通り沿いにも古い郵便局や酒蔵の建物が残っていたりと見所は豊富でした。
仲屋町通りの雰囲気。
仲屋町通りは途中から出町通りと名前を変え、近江八幡駅のすぐ近くという所まで通じています。
近江八幡駅に戻ってきました。たっぷり観光したつもりなんですが、竜王町と近江八幡という離れた2箇所を回る形となったので、若干どっちつかずになった感が否めない気が……。
次回来る時は今回時間が足らず登れなかった八幡山や、その更に北にある長命寺、琵琶湖上の沖島等も併せて回ってみようかなと思います。
【移動】東京までの帰路
観光を終えた後は、東海道本線の電車を乗り継いで帰るのみとなります。まずは新快速で米原駅まで移動。
米原駅から大垣行き。東京まで乗り継ぐにしては若干遅い時間帯の為か、そこまで混雑していませんでした。
大垣駅で豊橋行きに乗り継ぎ。乗り換え待ちの間、貨物列車が走り抜けていました。
豊橋、浜松と乗り継いで静岡駅。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯でした。
静岡駅では乗り継ぎに少々時間があったので駅前へ移動。徳川家康像とその幼少時代の竹千代像が並んでいました……この2023年の大河は徳川家康を題材とした『どうする家康』だったので、ひと目見ておきたかった所。
静岡駅から熱海駅、そこから東京行きに乗り継いでようやく食事ができるくらいの空き具合になってくれました。まずは手持ちのお酒三種を並べてみる。
米原駅での乗り換え時間で購入した駅弁、近江の味。やはり電車酒には駅弁でしょう。
日付が変わる少し前頃に東京駅に到着しました。18きっぷヘビーユーザー故に東海道本線経由の行き来は慣れていますが……基本的には空いてる中央線経由の方が好きなので、時間があればそちらを選びたいというのが本音。
ふと東京駅のレンガ駅舎を見てみたくなり一旦丸の内口へ。
東京駅の駅舎と周囲のビル群。一番左側を撮り損ねてしまったので、なんだか見切れているような中途半端な写真に。
東京駅と駅前風景。日本を代表するターミナル駅とは言え、この時間帯は流石に人の姿も少ない。
再び改札口に入り中央線で帰路につきました。行程後半の天候がいまいち優れなかったという事もあって登山要素は少なめの旅行となりましたが、これはこれで楽しかったかなと思ったり……。