月山・鳥海山登山旅行8日目 帰路、鼠ヶ関と胎内市内の史跡巡り
8日間に及んだ東北方面の登山の最終日となります。内容的にはほぼ移動日となりましたが、前日の間に少しだけ移動しておいたお陰で途中での観光をする時間的余裕が生まれました。今回は村上から南下した所にある胎内市の中条からレンタサイクルを利用し、重要文化財にも指定されている乙宝寺の三重塔を始めとした市内の散策を楽しみました。
「鳥海山矢島口から長坂口その3」の続きの記事となります。
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目次
【移動】鼠ヶ関から村上、中条
朝方、明るくなってきた頃の鼠ヶ関港です。写真で見ると海面は穏やかで凪いでいるようにも見えますが、実際は常に西からの強烈な風が吹き付けており、帽子が飛ばされてしまいそうになる事もしばしば。
望遠してみると沖合に浮かぶ粟島が見えました。時間帯としては6時前、堤防や埠頭には多くの釣り客の姿が見える。
陽光が差し込んできた頃の港の様子。一帯は公園として整備されています。この頃になると釣り人は撤収を始めていました。
この日は集落総出でのゴミ掃除が行われるようで、朝6時きっかりという時間を皮切りに、住民の方がビニール袋片手に歩き回っていた。
山の裏側から登ってきた太陽。この日も暑くなりそうです。
村上方面に向かう始発列車の出発まで多少の時間があったので、少しだけ町の中を歩いてみます。普段は静かな漁村なのでしょうが、大勢の方がゴミ掃除をされているので和気藹々とした感じが満ちており、半ばお祭りのような雰囲気でもありました。
源義経上陸の地と書かれた石碑があります。兄の源頼朝の追討から逃げる為に京から奥州に向かう際、日本海を船で迂回した後はこの地から上陸して以降は陸路で向かったという。
鼠ヶ関といえば集落内に県境(新潟県と山形県)が敷かれている珍しい集落として知られています。県境と言えば都市部を除いて一般的に山脈や河川等に沿って敷かれる事が多いので、こうした家並みの中に置かれているというのは少々不思議な光景。
この地には元々は奥州三関の一つである念珠ヶ関と呼ばれた関所が存在したので、越後国と出羽国といった令制国の時代からの境界とされていたようです。
こちらは県境から新潟県方面を眺めた方面。ちなみに鼠ヶ関という名は山形県側の呼称で、新潟県側は伊呉野という名の集落との事。殆ど連綿と家並みが続いているように見えますが、昭和頃までは県境を挟んでの交流は一切無かったという興味深い話もあります。
線路沿いの道を歩いて駅へと向かいます。発車の時間が迫っており、乗車予定の列車の前照灯は既に灯されていました。
鼠ケ関駅とその駅前の風景。比較的規模の大きな集落に面した駅ですが、特急は隣駅の府屋駅に停車する為にこの駅には停まらず、業態も無人駅となっています。しかし小さいながらも運行上の拠点として位置付けられているようで、この駅を始発終着とする列車も幾つか存在する。
鼠ケ関駅の構内の様子。前日は両方面に向かう列車が縦列に停車していましたが、一方の酒田行きの列車は既に発車してしまったようでその姿はありませんでした。
今回は残る一方、新津行きの列車に乗り込み南下します。
日本海側に沿って1時間弱、村上駅に到着しました。この年の年始、雪が積もる頃にも来た事を思い出します。
村上と言えば〆張鶴と大洋盛。後は鮭ですね。年始に訪れた時はお土産用の鮭昆布をつまみに列車の中でお酒飲んだりしていました。
村上は何度も訪れている町なのですが本腰入れて回った事は今まで無いような気がします。歴史あり文化財ありという町なのでそのうち歩いてみたい所ですが……登山をあまり念頭に置かなくて済む冬辺りがいいかな。
胎内市その1 羽州街道の宿場町、中条
村上から暫く乗車して中条。胎内市の中心駅であり、今回の観光の拠点となる駅です……昔は地平の昭和っぽい駅舎だった気がするのですが、いつの間にかに真新しい橋上駅舎へと様変わりしていました。
胎内市は市内の桃崎浜に父方の実家があるので幼少期に何度も訪れているのですが、同じ市内でも距離的には坂町駅の方が近かったので、この駅に降り立ったのは今回が初めてでした。
改札を出て一階に下った所には観光案内所があり、そこで自転車を借ります。その際にコインロッカーに登山用のでかいザックを入れて身軽になってから出発……思ったのですが、そのコインロッカーが見当たらない。特急も止まるそこそこ大きな駅なんですが。
ただ、困ったので案内所の方に相談してみた所、案内所内に置いておいても良いとの事だったので事なきを得ました(露骨に不服そうな態度を取られてしまったので、通常は断られる可能性が大きいです)。
気を取り直してレンタサイクルを利用しての市内観光となります。この日は2~30kmという長距離を移動する予定なので電動自転車というのは有り難い。
融雪パイプの整備された駅前通りを中条の市街地方面に向けて進んでいきます。
中条は平安時代に成立した奥山荘と呼ばれる荘園を発祥とした町で、鎌倉時代初期頃までは平家方の城氏と呼ばれる豪族が支配していました。しかし後の建仁の乱で鎌倉幕府によって城氏が滅ぼされた後は鎌倉幕府における十三人の合議制(鎌倉殿の13人)でも知られる和田氏の支配、和田合戦にて和田氏が滅ぼされた後は三浦和田氏の支配となり、その時代に一族間で領地を北条、中条、南条と三分割した事が現在の中条の地名の由来とされています。
室町時代に入る頃には当時中条の地を支配していた和田一族は中条氏と名を改め、現在の中条の市街地の近くにある江上館という城館を拠点に支配を続けていましたが、戦国時に入ると一帯で急速に領地を拡大を続けていた長尾氏(後の上杉氏)の配下となりました。
江戸時代以降は行政的、軍事的な拠点性は低下したものの、日本海沿岸部を通過していた羽州街道の宿場町としての機能が強まり、現在の中条の市街地はそうした時代に整備されたものが原型となっています。
旧羽州街道沿いに続く中条の町並みの様子。まだ朝早い時間帯という事もあって人気がありません。
古い街らしく、四つ辻の所には小さな社が設けられていました。
市街地の中心近くには格式高そうな料亭があったり。
街道から少し入った所にある熊野若宮神社。かつての荘園、奥山荘の総鎮守として紀伊国の熊野本宮から勧請されたという。周辺では毎月決まった日に朝市が催されるらしいです。
東本町の町並み。かつての宿場町時代を彷彿とさせる旅籠のような建物も僅かに残る。
その東本町方面に続く町の突き当りには大輪寺という、かつてのこの地を治めた中条氏の菩提寺とされる大きな寺院があります。
無用者は立入禁止的な素気無い張り紙がありましたが、観光目的なので気にせず入っていく。
大輪寺の広々とした境内の様子。その中央に建つ山門は江戸末期頃の建築。
経蔵や土蔵、本堂といった大輪寺の伽藍。
細い道を辿って一旦国道沿いへ。道端に水路が流れていて長閑な雰囲気です。
後々父方の実家の墓参りに向かう為、供花の調達を……と国道沿いのホームセンターへ移動。9時きっかりの開店に合わせて入る。
やや質素ですが菊の花を一対ほど。旅行中に花を買う事ってあまり無いですね。
中条の市街地の東側の細い道を抜けていく。この付近は道筋が迷路のように入り組んでいる。
北本町の家並みから羽越本線の線路を跨いで西側へ。明治から昭和にかけての歌人である會津八一のゆかりの地という事にちなみ、通りには會津八一通りという愛称が付けられています。
線路を越えた先には庚申塚。家並みは暫くの間続いている。
こちらは西条町にある太総寺。會津八一の父方の家系の菩提寺との事で、解説板が立っていました。
中条の中心市街地から2kmほど絶えず家並みが続いていましたが、県道314線に合流する辺りでようやく途切れます。
胎内市その2 乙集落と乙宝寺
自転車を走らせて更に西へ進むと、如何にも米どころ新潟らしい田園地帯の中へ。前日まで歩いていた庄内平野と同様に黄金色の稲穂を付けていますが、こちらの方が緯度が低い分収穫の日は近そうです。
田んぼが広がる風景。奥の方には何やら気になる山々が。
北側に見える山々。村上市北部に位置する新保岳のようです。月山や鳥海山からも見えたピークですね。
こちらは平野部からすぐ東側の所から続いている櫛形山脈。日本一小さな山脈としてアピールしているらしく、登山コースも豊富に存在する。手軽に歩けそうなので登山オフシーズン辺りに歩いてみたい。
その櫛形山脈の左側に見えた、ちょっと立て込んでいる辺り。朝日連峰が見えるかなという方面ですが少し微妙な所。
電線越しにも気になる山々が。
湾曲した道路の奥に見えるのは宮瀬、高畑の集落。幾つもの小さな集落を抜けていく。
高畑集落の中にある諏訪神社。少し先に進むと、小さな集落には似つかわしくない飲み屋なんかがあったり。
県道3号線に合流した後、その道を村上方面へ進んでいくと途中に雰囲気の良さそうな味噌醸造所が。
味噌をお土産に購入するのは最近の個人的な流行りなので立ち寄ったのですが、どうにも人の気配がない。ピンポンしても無反応でした。店構えは小奇麗で営業してそうな雰囲気なんですが……。
更に村上方面に進んでいくと乙宝寺のある乙の集落の内部へと進んでいく道の分岐へと差し掛かりました。
乙集落の様子。下越の村落はどこもこんな感じの風景。
前カゴにお花を載せてのサイクリングは目を引いたようで、地元の方に何度か話し掛けられた。
乙宝寺に到着しました。乙宝寺は奈良時代創建、新潟では屈指の古刹で、重要文化財指定の三重塔を擁する……ここは父親の帰省時に何度と訪れている場所ですが、まだ一桁年齢の頃だったので全く記憶にない。
先に進んだ所に立つのが仁王門。こちらは江戸中期頃の建築。
仁王門に向かって右手に広がる池の中に建つ茅葺屋根の建物が弁天堂。こちらは江戸前期の建築です。長閑でいい雰囲気。
乙宝寺仁王門の様子。やや褪せた朱色が美しい。
仁王門を潜った所から見える三重塔と鐘楼。三重塔の手前には手水舎が立っている。
三重塔を単体で。江戸時代初期の1619年の建築で重要文化財指定。当時この地を治めていた村上藩の藩主である村上忠勝によって建立されたという。
三重塔の色々なアングル。周囲は木々に覆われている。
三重塔の下部。
三重塔とその付近一帯の様子。京都や奈良といった所の三重塔とはまた違った雰囲気でした。
こちらは乙宝寺の本堂にあたる大日堂。かつては江戸時代に建立されたものがありましたが昭和期に焼失。現在の建物はその後再建されたもの。
乙宝寺大日堂。内部では丁度祈祷が行われていた。
帰り際、広々とした乙宝寺の境内を振り返る。20年以上ぶりくらいに訪れたお寺でしたが、殆ど記憶に無かったので初めて訪れたかのような感覚でした。
境内を抜けて乙の集落へ。この付近では割とメジャーな観光地のようで、観光客の姿も少なくありませんでした。
乙宝寺の門前には乙まんじゅうという名物があり、こちらに立ち寄るのも目的の一つでした。酸味の効いた酒まんじゅうで、乙宝寺の方はあまり覚えていませんでしたが、こちらは割としっかりとした記憶がある。
20年以上ぶりに食べる乙まんじゅうは記憶の中の物と同じ、少々懐かしい味がしました。お土産用に20個ほど購入。
乙まんじゅうを頂いた後は乙の集落から更に北上していきます。
胎内市その3 荒川三湊、桃崎浜
胎内市の北端、荒川のほとりとも言える場所にある桃崎浜の集落まで自転車を漕いでやってきました。こちらの集落に父方の実家や幾つかの親戚の家があるのですが、ほぼアポなしで訪れたのでお墓に直行……しかしどのお墓か分からない。
仕方ないので集落内の人に尋ねようと思ったら、駐車場の所で今まさに出かけようとしている伯父さんの姿があったので教えて頂きました。久々にお会いしたので積もる話もありましたが、お互いに予定があるという事で今回はごくごく簡単な近況報告を済ませるだけに留めました。
墓参りを無事に済ませた後は集落内をうろうろ。荒川の河口域にある桃崎浜は河川舟運の基地として栄えた町で、江戸時代には付近の海老江、塩谷の集落を包括して荒川三湊として北前船の寄港地ともされており、海運を生業とした人々が多く集まる船主集落として発展しました。
集落内には右の写真のものを始め、当時の廻船問屋の建物が少ないながらも残されています。
こちらは集落の中央部に位置する荒川神社。廻船業や漁業を営む人々の信仰を受けたという。
荒川神社の拝殿。江戸末期頃の建築で、ちょっとした高台に建っている。
荒川神社に隣接して建っているのが文化財収蔵庫。この地に寄港する北前船を描いたとされる船絵馬が多く保管されており、予約が必要であるものの見学も可能……しかしアポなしであったので扉は固く閉ざされていました。
桃崎浜には父親の帰省の度にほぼ毎年来ていたのですが、こちらに入った記憶はありません……今度遊びに来た時は是非とも予約して中を覗いてみたい所。
神社と収蔵庫の位置関係。整備された芝生が広がっている。
神社の階段から桃崎浜の集落。世帯数は150と、胎内市内にある集落としては規模は大きめです。
桃崎浜の集落から日本海の沿岸部へ出てみる。海沿いには国道345号線が通過しています。
付近にははまなすの丘という公園が整備されており、季節によっては名前の通りのはまなすを始めとした花々の鑑賞を楽しめるという。
はまなすの丘から日本海を臨む。子供の頃、この辺りで泳いだり釣りをした記憶があります。
北側、村上の市街地や沿岸の瀬波温泉がある辺りを臨む。海沿いギリギリの所まで山が迫っているように見える。
その海沿いの山の様子。もう何度も見えている新保岳です。
そろそろ戻り始めないと家に帰れなくなるので駅まで向かいます。
乙宝寺の門前まで戻ってきました。そこから乙の集落を抜けて再び田んぼの中の道に。
田んぼ道の様。既に正午近くという事もあって炎天下でした。
途中の菅田の集落。往路と同様、幾つもの小集落の中を通り抜けていく。
田んぼ道から集落に入っては抜けてを繰り返す。
橋の上から胎内川を臨む。ここまで来ると中条の駅は近い。
中条駅の駅北側まで移動しました。中心市街地に近いという立地もあり、一帯は新興住宅街として俄に整備されている。
その新興住宅地の中に良さげな雰囲気の味噌の直売所が。『五十嵐こうじ屋』というお店のようで、今回はこちらでお土産用の味噌を調達する事にしました。
店内には味噌の試食コーナーがありました。舐めさせて貰う所は多いですが、こちらは味噌汁にして飲む事ができる。薬味もちゃんと用意されているのは良いですね。
味噌も量り売りでその場で詰めてくれます。今回は麹歩合の違いで500グラムずつ購入しました……ここのお味噌は麹の甘味が際立っていて結構美味しかったので、こちらの方に来る度に買いに来たいですね。駅近ですし。
先程の試食スペースはイートインも兼ねているようで、ソフトクリーム等を頂く事ができます。この日は暑かったので甘酒アイスを頂き、更に味噌の上澄みを集めた味噌だまりという調味料をお土産に追加購入しました。
中条駅まで戻り自転車を返却。観光案内所の方には相変わらず荷物の事で不満そうな態度を取られてしまったので、次回訪れる時にはコインロッカーが置かれているといいですね。
中条駅のホームと駅名標。それなりの規模の町で、新潟の都市圏にも入るのではという所ですが、日中は2時間ほど間隔の開く時間帯もある。
ホームに滑り込んできた羽越本線の電車に乗り込みます。日曜日の昼間ですが、新潟に遊びに出かけるような方でそこそこ賑わっていました。
【移動】東京までの帰路
胎内市内の観光を終えた後はひ電車を乗り継いで家路を目指します。途中、新発田で新津行きに乗り継ぎ。
鉄道の要衝として知られる新津駅に到着。ここから信越本線に乗り換えます。
この駅から伸びる磐越西線は8月中の大雨で一部区間が運休となっていました。現在(2023年6月)は全通しています。
新津駅のホームには観光列車『越乃Shu*Kura』が停車していました。新潟の地酒をテーマにした列車らしく1度くらいは乗ってみたいのですが……車両も古いですし無くなる前に。
越乃Shu*Kuraの前面と、その奥にもまた別の観光列車が停まっています。鉄道好きの方であれば一日中楽しめそうな駅。
ホームで長岡行きの列車を待つ。新潟から新津までの間は20分に1本と高頻度で運行されているのですが、そこから先は1時間おきと途端に本数が減るので、時間が合わないと暫く待ちぼうけする事に。
長岡行きの列車がようやく入ってきました。本数が少ないという事もあって車内はそこそこ混雑していました。
終点の長岡駅から上越線の水上行きに乗り継ぎ。まだ16時台という時間帯ですが、上越国境を越える最終列車だったりします……早すぎる。
魚野川沿いに山間を登りつめていく。途中何度と滑った事がある上越国際スキー場を横目に。
日も落ちてそろそろ夕食を……という頃ですが、間髪入れずの乗り継ぎが続いたので、これまで食料調達に失敗。登山用に担いでいった残りの僅かなお菓子で飢えを凌ぐ。
水上駅で乗り継ぎです。そこそこ乗客は居ますが、青春18きっぷのシーズンが前日で終わっているので、そこまで混雑しませんでした。
高崎駅では八高線に乗り継ぎ。帰宅の際には便利な路線なんですが、終電が20時台と早いのがネック。ホームも他の路線より遠く、今回は3分の乗り継ぎだったので走りに走った。
日曜日だった為か、高崎駅の駅弁屋が遅くまで営業していたのでだるま弁当を調達できました……そして何時も通り群馬藤岡以降はガラガラとなりましたのでお酒と共に頂く。
駅弁としては個人的に崎陽軒のシウマイ弁当の次くらいには多く食べていると思われるだるま弁当。全体的によく味が染みておりお酒が進む。
途中の明覚駅にて列車交換。八高線は無人駅でも全てのドアが開くようになった(ザルでは?)ので、酔い覚ましにホームに出てみる。
明覚駅のホームの様子。暫くうろうろしていると対向列車が入り込んできた。
空を見上げれば雲間を照らす月明かりが。
高麗川駅にて乗り換えて中央線沿線に向かって帰宅、これにて8日間にも及ぶ東北方面の登山は終了となります。お疲れ様でした。