山とか酒とか

登山やお酒を始めとした趣味全般を雑多に、また個人的に有用だと思った情報を紹介しています。

四国中国登山旅行9日目 肱川水系の古い街

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登山を終え四国の観光を始めてから二日目。前日は高知県内、四国の南側を半周するような形で巡った後は愛媛県入り。前泊した宇和島を出発し、まずは宇和島藩から分知された伊予吉田藩陣屋町である伊予吉田の街並みを軽く散策。次に街道沿いの集散地として栄えた卯之町に移動し、明治の建築の学校校舎が残る開智学校や古い商家の建物が残る街並みを観光。卯之町からはバスで大洲まで移動し、築城当時の建材、工法にて忠実に復元された天守を持つ大洲城とその城下町を巡る。その後は内子へ行き、木蝋作りで栄えた黄漆喰の商家群の街並みを見物……こちらは保存されている街並みの規模も大きく、本日のメインとも言える観光でした。古い町並み巡りを終えた後は県都である松山へ移動し、僅かな時間を利用して現存天守残る松山城を往復。松山からは翌日瀬戸内海を船で渡る事に備えて今治に移動しました。

8日目 高知城と酒造町佐川」の続きの記事となります。

inuyamashi.hateblo.jp

他の日程を見たい方は以下の記事よりリンクを辿って下さい。

【2021年3~4月】四国中国登山旅行 - 山とか酒とか

目次

伊予吉田散歩 伊予吉田藩3万石の小さな陣屋町

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本日は宇和島和霊公園からスタートです。和霊公園宇和島の市街地近く和霊神社の門前とも言えるべき場所に位置している公園で、市民の憩いの場として親しまれています。

和霊神社の創建は江戸初期、伊達秀宗による宇和島藩政が始まったばかりという頃にお家騒動で当時秀宗の補佐を務めていた山家公頼山家清兵衛)が横死を遂げますが、その後に立て続けに藩内で不吉な事が起こった事で、神社を建立し和霊(ニギミタマ、温和な神霊の意)として祀ったのがその始まり。その後何度かの移転を経て現在の場所となりました。

公園の敷地には旧国鉄宇和島(現在の予土線)で走っていた蒸気機関車が保存されています。現在でこそ県庁所在地の松山から予讃線の特急1本で移動可能な宇和島ですが、全通は昭和20年と意外に遅く、それまでは宇和島鉄道という軽便鉄道を前身とした国鉄宇和島線が宇和島から予土線吉野生駅まで離れ小島のような状態で営業していました。当時は本線と接続していなかったという事もあって輸送量も少なく、展示されているC12のような小型のSLでの運行が続いていた。

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明け方の宇和島の風景。背後に見えるのは市街地を見下ろすような立地の丸山公園で、園内には闘牛場もあります。

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昨夜ぶりの宇和島です。この日は県内の今治までの移動、途中でバス移動を挟んだりする事もあり元が取れないので18切符は使用しませんでした。

改札を潜ると乗車する予讃線普通列車が既に入線していました。

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松山行きの普通列車。毎時1本運行されている特急であれば1時間半で松山に到着しますが、こちらは3時間と倍近く時間が掛かる……車両はかつて特急として使用されていたものが充当されていました。

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車内は仔細な変更箇所はあるものの、概ね特急時代の姿のままで快適そのもの。乗車券だけで乗れるのでお得と言えばお得です……時間は掛かりますが。

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特急が頻繁に走っている線区なので学期休みのこの時期は利用者は少なく、ホームに人の姿は見当たらない。

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3駅先に進んで伊予吉田で下車します。乗り心地の良い列車だったのでもう少し長く乗っていたかったのですが、己の予定には逆らえない。

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伊予吉田のホーム。田舎の小駅といった佇まいですが、宇和島市と合併する前の吉田町の中心駅で特急も停車する。

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無人化されて久しい様子ですが、天井が高く広々とした待合スペースを持つ駅舎が……開業当時のものでしょうか。

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少し早い時間帯ですが散策を開始します。ここでの散策は大して時間を取っていないので散策というよりは散歩寄りですが。

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駅前通りの様子。突き当りの所には先程の駅舎が見えます。

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伊予吉田藩陣屋町である伊予吉田の街並み。駅は町の南端に位置しており、北側に向かって碁盤の目の区画が続いています。一帯は山と海に挟まれたような地形で平地は少なく、その限られた土地に古くからの家並みが密集している。

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町は河内川に沿って南北に伸びたような形状で広がっていますが、途中の立間川を跨ぐ橋を境に南が町人町、北が武家町と区分されており、藩庁となる吉田藩陣屋武家町北端の御殿橋近く(現在図書館が建つ辺り)にありました……しかし今回は時間が限られているので南側の町人町の方のみを散策。

町人町の方は古い建物が残っていますが老朽化著しい印象。建て替えられたり更地と化している所も多いです。

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古い家屋が残る一角。かつての町割に基づく旧町名は魚棚という事で、その名残か太刀魚巻焼なんて幟を出しているお店も……一体どういうものかと帰ってから調べてみると、三枚におろした太刀魚の身を竹に巻き付けて炭火で炙るという南予の郷土料理のようです。お酒に合いそうだったので是非とも食べてみたかった。

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立間川の畔まで移動しました。ここから先はかつての武家町となります。

伊予吉田藩は初代宇和島藩主の伊達秀宗の五男である伊達宗純が宗家から3万石分知された事で立藩。その過程では紆余曲折あり、結果的に宇和島伊予吉田の両藩の関係は暫くの間良好とは言えない状態が続き、度々起こる領地争い等で確執を深めていた。しかし江戸中期に関係も改善、実質的に宇和島藩支藩という位置付けの藩となりました。

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川沿いの風景。西の方にかつてこの街に建っていた商家や武家屋敷の建物を移築保存した『吉田ふれあい国安の郷』という施設があるのですが、朝早いこの時間帯(午前6時台)に開いている訳がないので立ち寄らず。

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静かな田舎町といった風情。橋の先の旧武家町の方に商店街が続いている。

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時間切れとなったので駅の方へ踵を返す。この通り沿いがかつての町割における本町で、北の方に伸びていた商店街がこちらの方向にも伸びています。中々の寂れ具合ですが、かつてはこの吉田の町の中心街とも言える場所だったのでしょう。

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年季の入った酒屋と年季の入った小橋。

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水路沿いに建つ古い家屋。ノスタルジーな風景。

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駅に戻ってくると反対側のホームに特急列車が停車していました。本線を走る特急とは言え、末端に近いこの付近だと2両や3両と短い編成のものが大半。

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宇和島方面に走り去っていく特急と、これから乗車する八幡浜行きの普通列車普通列車の方はこの駅で2本の対向列車を待つ為に17分も停車しています。

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反対側のホームの奥には何やら意味ありげなポイントを発見。今や無人駅となったこの駅でもかつては貨物の取り扱いがあり、蜜柑を始めとした農産物の出荷が行われていたのでその時代の遺構かな……と思うものの、こうした小駅の貨物用ホームというのは通常、駅舎に隣接した場所に設けられるので少し不自然。

などと疑問に思っている内に2本目の対向列車が入ってきたので列車に乗り込みます。結局あのポイントの正体は分からずじまいでした。

卯之町その1 私塾を前身とした四国最古の小学校、開明学校

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伊予吉田駅から数駅の移動を経て卯之町で下車しました……すると先程とは一転して辺り一帯が霧に包まれていました。卯之町は海に面していた吉田の町から北側、法華津峠を越えた先にある肱川上流部の宇和盆地に位置している町です。

標高が高い所の盆地であるが故に放射冷却現象が起こりやすく、寒暖差の大きい春や秋の季節では盆地全体が朝霧に覆われる。

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霧に包まれた卯之町の構内。西予市の中心駅であり特急列車も停車する。構内は周囲の駅と比較しても広い。

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古さを感じさせつつも小奇麗に手入れされている印象の卯之町の駅舎。訪問時は駅員の姿もありましたが、訪問後同年10月に無人化、11月に駅舎が改築の為に取り壊されてしまったとの話。

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駅前では再開発が行われているようで、何やら大掛かりな工事が行われていました。駅舎の建て替えもその一環だったのでしょうか。

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駅のすぐ先には宇和盆地において最大の市街地である卯之町の街並みが広がっています。自治体は今でこそ西予市ですが、平成の大合併以前はこの付近の郡名を冠した宇和町という名前の町でした。

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駅前から伸びる通りは路面に色が塗られ、以前は町のメインストリートだったような雰囲気。その突き当りの丁字路で、かつて大洲宇和島を結んでいた宇和島街道と合流します。

以前は百貨店であるいよてつ高島屋の支店も存在した町の中心街とも言える場所ですが、朝早い時間だからなのか、それとも一日中そうなのか分かりませんが、ひっそりと静まり返っていました。

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卯之町重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、街道から1、2本北側の道沿いに古くからの家並みが残存しています。

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重厚な商家の建物が立ち並ぶ卯之町の街並み。卯之町を擁する宇和盆地は古くから米どころとして知られており、この町はそうした穀倉地帯から産出された農産物の集散地として発展しました。

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裕福な商家が多かったのでしょう、漆喰が映える立派な建物が多く残ります。それぞれの間口が狭いからでしょうか、屋根の妻が通りに面している妻入りの建物が多い。

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卯之町の街並み。古い街にアクセントのように残るレンガ塀。重伝建なのでそれなりに観光客は多いはずですが、まだ朝早く人通りも少ない。

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古い街並みには猫の姿がよく似合う。

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途中、光教寺の参道が分岐しています。寺に通じている他、重要文化財に指定されている開明学校の校舎や資料館がこの参道の途中にあります。

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割と最近整備されたと思われる石畳が敷き詰められた参道。

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参道を進んでいくと開明学校の校舎が見えてきました。白壁にアーチ型の窓が並ぶ姿が印象的。

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正面が光教寺、左手に開明学校校舎という並びです。写真には映っていませんが参道右側に宇和民具館という資料館があり、校舎の見学に際してはこちらで受付を行います。

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先にある光教寺の方も覗きに行きました。臨済宗の寺院で入口には地蔵が立ち並んでいる。付近には江戸末期に整備された坪ヶ谷新四国という所謂ミニ四国八十八箇所が整備されており、入口にはその案内地図が掲示されていました。

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光教寺の境内の様子。このお寺はかつてこの地方を治めていた豪族で、後に伊予国西部を治める戦国大名となった伊予西園寺氏菩提寺として知られる。その最後の当主であった西園寺公広の墓もこのお寺に存在します。

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境内に咲く水仙の花が綺麗でした。

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寺の入口から参道を見下ろした所。街全体を覆う朝霧は依然として濃いです。

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開明学校の見学には民具資料館で受付を行う必要があるので、まずそちらの館内へ。時刻は8時20分……開館時間は9時との事だったので外観を見るのみに留める事も考えていましたが、職員の方の厚意で一足先に開けて頂きました。

セット券を購入して見学した民具資料館には昔の人々の生活や風習を想起させられるような用品やユニークな祭具等が展示されている……展示品は非常に多く、またジャンルも多岐に渡っていて見応えがありました。

左側に見える巨大な草鞋は永長の大草履と呼ばれ、市内の永長集落において魔除けとして集落の入口となる橋の袂に掛けられていたもの。南予地方の集落では小正月に当たる1月16日は念仏の口開けとも呼ばれ、集落の入口に大草履を掛ける風習があるとの事。

どうして巨大な草履が魔除けとなるのかについてですが、この地方ではオニノコンゴウ(鬼の金剛)と呼ばれる守り神の存在が古くから信じられており、外界からの災いや疫病から守って貰う為に履物(金剛草履と呼ばれる)を毎年新調する……といった習慣が形付いたものとされています。

右の鹿の被り物は市内の幾つかの集落で行われる五ツ鹿踊で使用されるもの。1頭の牝鹿を4頭の雄鹿が探し巡るというストーリー仕立てで踊る行事で、場所によっては八ツ鹿だったりするらしいです。行事の起源は東北の仙台にあり、仙台から遠く離れた宇和島に移封となった藩主の伊達氏が故郷を懐かしみ、領内の神社の祭事の際に催し物として加え、その後定着したとされています。

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こちらはこの地方の祭事で使われる牛鬼面。牛鬼というと人を食らうおっかない妖怪としてのイメージが強いですが、宇和島を始めとした南予地方では悪霊退散の守り神として祀られており、祭事に際しては左下にある写真のような姿で街中を練り歩き、長い首を家の中に突っ込んで厄払いをするという……なんとなく秋田のなまはげに似ている。

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物凄い骨董品が飾られているという訳では無いですが、この地方の信仰や風習に纏わるものが多く展示されていて見ていて飽きない。

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展示されている漆器類。

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様々な年代の雛人形。合間に見える絢爛な御殿飾り京都御所の紫宸殿を模したもので、京阪神地方を中心に見られるタイプの飾り雛とされています。この卯之町にこうした雛人形が多いという事は、かつて上方との交流が盛んであった事の証左でしょう。

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民具資料館を見学した後は開明学校校舎へと向かいます。こちらも内部は資料館になっており、南側に隣接する第二校舎は考古資料館として市内の遺跡からの出土品が展示されていました。

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第二校舎の窓から見下ろす卯之町の街並み。いつの間にか霧が薄れており、街を挟んだ先の山がぼんやりと見え始めていました。

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開明学校校舎、入口前の幅の狭い廊下。

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校舎は2階建てで、内部には学校として使用されていた当時の道具や資料が多く展示されています。右の写真の中央のボードには松本にある旧開智学校に関する記事が掲示されています……古い校舎同士で交流があるらしいです。

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二宮金次郎像と巨大なそろばん。どちらも今の学校じゃ見かけられないようなもの。

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かつて教室として使用されていた一室が机と椅子、教壇の配置そのままに再現されていました。

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次は北側の申義堂に入ります。こちらは開明学校の前身となった私塾の建物で、明治の初頭頃には藩校、その後は開明学校の初代校舎として使用されました。

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申義堂内部の様子。擬洋風建築の開明学校校舎とは打って変わって純和風、日本家屋のような佇まい。内部は畳敷きで、かつて子供が使用したものか背の低い机が並べられている。

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一通りの見学を終え、最後に開明学校の校舎を振り返る。明治15年に小学校として建築された擬洋風の校舎で、アーチがかった窓にはドイツ製の窓ガラスが嵌め込まれている。校舎として使われていた建物としては古い部類で、重要文化財の指定も受けています。

卯之町その2 宇和米の集散地、卯之町の街並み

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開明学校の見学を終えて街並みの方に戻ります。街を覆っていた霧もこの頃にはすっかり抜けていました。

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先程引き続き卯之町の古い街並み。大都市圏から距離があるという事もあって、過度に観光地化されている感じでもない。落ち着いた雰囲気が保たれていました。

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左はかつて醤油の醸造を営んでいた末光家住宅。右は松屋旅館の建物で古色蒼然とした佇まいですが、つい最近まで営業していたらしいです。300年続く糠床を使用して作った漬物が売りとの事でしたが、現在は改装の為に休業中との事。

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松屋旅館の少し先の街並み。

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一際存在感を放つのがベンガラで塗られた赤錆色の建物。現在はリノベーションされて小奇麗になり、イタリアンバルとして利用されています。

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この辺りも目を引く所。妻入りの似たような構造の町家が6軒にも渡って立ち並んでおり、不思議な統一感がある。

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妻入りの町家が立ち並んでいる向かい側には、造り酒屋である元見屋酒店があります。

メインの銘柄は立て看板にあるように開明特定名称酒を中心に作っている蔵元の割には首都圏の酒販店や居酒屋ではあまり見かけないので酒蔵訪問の候補の一つでしたが、午後からの営業との事で立ち寄れず。

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左の写真の建物もかつては酒蔵でしたが、現在は喫茶店として活用されています。右の写真の左側には鳥居門という、一見すると武家屋敷と見紛うかのような大きな門がありますが、これは元々は庄屋の建物。

非常に立派な門ですが立派過ぎて身分不相応と見做された上、藩の許可無く建ててしまったという事が問題視され、当時の庄屋の当主が左遷させられてしまったという言い伝えがある。

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鳥居門付近の風景。重伝建地区の東端に当たる地域。

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宇和島街道沿いに戻りました。ここから街道沿いに東側、駅とは反対方向に進んでいく。

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市街地の東端近くに酒蔵があります。卯之町の街中には現役の酒造が2軒残っていますが、先程通りがかった元見屋酒店に続く2軒目がこの宇都宮酒造です……先程の元見屋酒店に比べると観光客が歩くエリアからは外れている為か少し地味めの印象ですが、自然体の店構えとも言える。

この酒蔵は訪問時点ではネット上に殆ど情報が無かったので休業、もしくは桶買いで自醸は行っていない所ではと考えていましたが、蔵の裏手から覗いた限り醸造は続けてそうな雰囲気。

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店の入口には暖簾は掛かっていませんでしたが、扉に手を掛けてみると開いたので中へ。やや古びていますが来客用に椅子も並べられている様子に安堵。

呼び掛けてみると若いご主人が出てきたので暫しお話。ネットの古い記事を読んでみると職人気質のお爺さんが一人で黙々と作っている感じの蔵だったらしいですが、つい1年前に代替わりをしたばかりという。

「ネットに殆ど情報が無かったので開いているか不安でしたw」と忌憚なき感想を述べた所、ご主人としても認知度については喫緊の課題と捉えているようで、代替わりを機にネットやSNSを通じて情報発信に努めていきたいとの事でした。

訪問した当時、公式サイトは殆ど作られたばかりのような状態で記事も僅かだったのですが、この旅行記を作成している段階(2022年2月)ではラベルをリニューアルしたり、首都圏の酒販店での取り扱いが始まったといった旨の記事が上がっており、内容も当時と比べると格段と充実していました。今後も引き続きチェックしたいですね。

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メインの銘柄は千鳥……の他に気になるお酒がガラスケース内にあったので話を聞いてみました。花神という銘柄で酒の色はピンク色。京都伊根、向井酒蔵の伊根満開のように赤米を使用したものかと訊ねてみるとそうではなく、酵母の反応でこのように色が出るのだとか……大分杵築、中野酒造のちえびじんにもそんなお酒があったような。

どちらを買うべきか、試飲は不可能との事なので悩みに悩みましたが、前日買った司牡丹の二種が日本酒らしい日本酒であったので、今回はややイレギュラーな趣向の花神を選択。

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花神の銘柄は司馬遼太郎の小説の表題から取られたとの事で、その許可を貰った際の直筆の葉書が展示されていました。司馬遼太郎と言えば歴史小説の第一人者として知られる人物ですが、この酒の銘柄である『花神』や紀行文『街道をゆく』シリーズの執筆で幾度と無くこの南予の地を訪れていました。

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興味を唆られるお話は尽きませんが、乗車予定のバスの発車時間が近付いてきたので出発となります。将来的には首都圏にも売り込んでいきたいとの事でしたので、いつか近所の酒屋に並んでくれる事を期待しましょう。

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出発の際に暖簾を出してくれました。評価の定まった有名所の酒蔵を回るのも面白いですが、さあこれから手掛けていこうという模索段階の蔵も中々良いものですね。

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宇都宮酒蔵すぐ近くの宇和島バス卯之町営業所まで移動。このバス停から松山行きのバスに乗り込み大洲までの移動です。

この区間、本来であれば鉄道で移動したかったのですが、減便に次ぐ減便で普通列車の本数が激減。朝方卯之町まで乗車した7時台の列車の次便は13時台と6時間近く開いている。タイミングが合わないので、今回はやむなくバス利用となりました。

大洲その1 復元天守大洲城

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卯之町から乗り込んだバスに揺られる事30分、大洲の中心街程近くの大洲本町バス停にて下車しました。下車した肱川に続く通り(肱川橋通り)は近年拡幅されたばかりのようで、広々とした雰囲気。

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東西に伸びる幾つかの道は幅が狭く、それぞれに古くからの商店街が続いています。大洲は先程回った卯之町から下流肱川中流域に栄えた城下町で、肱川南岸(肘南地区)の一帯には碁盤の目の町割が整備されています。市内には見所も多く、古い町家や商家の建物が多い事から伊予の小京都とも呼ばれる。

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そうした通りの内の1本である中一(中町一丁目)商店街の様子。商店街とはいうものの開いている店は少なく鄙びた雰囲気。かつての賑わいの名残のような看板建築の建物が多く立ち並んでいる。

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大洲城近くにあるレトロな佇まいの食料品店。大洲の街にはテレビドラマや映画のロケ地となった場所が多いようで、こんな感じの紹介看板が幾つか設けられていました。

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大洲城近くの交差点。この付近に城の入口となる東門(大手門)が設けられていました。道幅が少し広く道の接続の仕方が少し不自然なのは、この場所が肱川から水を引き入れた外堀であった為。

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大洲城すぐ側。かつての三ノ丸から二ノ丸として整備されていた辺りで、その間には内堀が存在しました。廃城後は民間に払い下げられ敷地内の開発が進んだので、現在では跡形もない。

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二ノ丸に立ち並ぶ古民家群、現在はリノベーションされ宿泊施設として使用されているらしいです。

大洲城大洲藩主の加藤氏の居城として明治の廃城令まで使用されていたのでこの古民家はそれ以降の建築でしょうが、家並みに統一感があって雰囲気は良い。

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古民家から目と鼻の先という所に大洲城天守が見えました。

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天守に向かって進んでいきます。前日回った高知や佐川でも桜は見頃でしたが、こちらも満開に近い咲き具合。

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桜の花を眺めながらの登城。青空であればもう少し映えるんですが、この日はなんだか空が霞んでしまっていて全体的に白っぽい。

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本丸の西側、かつての内堀があった場所は菖蒲園として整備されています……ここまで来ると天守も目と鼻の先。

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大洲城天守です。白漆喰と黒漆の下見板張りのコントラストが美しい……一見すると現存天守そのものですが、平成に入ってからの再建です。

再建とは言え、建築に当たっては模型(天守雛形、外観だけではなく内部の柱や梁等を忠実に再現した縮尺模型)や古写真といった資料に基づき、可能な限り築城当時の建材、工法を踏襲した。全国数多あるコンクリートの復元天守とは一線を画した存在。

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大洲城の入口です。手前の旨は台所櫓で江戸末期の再建。背後の平成期再建の天守と比較しても違和感はありません……で、いざ天守へという所ですが、今回大洲での滞在時間をあまり取っていなかったので内部に入るのは見送りになりました。

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少し引いた所から大洲城天守。左に見えるのは高欄櫓で、こちらも江戸末期の再建。大洲城は鎌倉後期、この地を治めた伊予宇都宮家の居城として築城したのが始まり。戦国時代に入ると豊臣秀吉による四国攻め以降は豊臣氏の支配を受け、その後の城主は小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎と幾らかの変遷を経て、江戸期に入り脇坂安治が城主となります。その頃の整備によって現在のような近世城郭の姿となったとされ、同時期に城下町も整備されたという。その後は加藤貞泰が移封させられ、そのまま明治維新まで加藤家の支配が13代に渡り続きました。

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広々とした本丸広場。お花見スポット的な場所ですが、この日は平日で花見客の姿は少ない。

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大洲城から見下ろす大洲の街並み。桜の花に遮られて見通しづらいですが、街は肱川と山の間の限られたスペースに密集するようにして形成されています。

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こちらは北側、肱川下流方面。予讃線伊予大洲駅は肱川の対岸側ににあり、かつての中心市街地とは幾分か離れています。肱川愛媛県においては最大の流域面積を持つ河川で、その流域に所在する都市としては大洲の街は最大規模の都市でもあります。

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肱川を跨ぐ肱川。大正時代にこの橋が通されるまでは数箇所ある渡し場から川を越えていましたが、その中でも臥龍山手前の志保町にある渡し場が南方面に通じる宇和島街道が近い事から特にメインで利用されていました。当時はその付近が大洲の商業的な中心として栄えており、現在でも当時の繁栄を物語る商家の建物が幾らか残っています。

ふとレールの繋ぎ目を通過する音が耳に入る。そちらの方を見やると、小さな桜の花の額縁に収まる特急列車の姿がありました。

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本丸から下ってきた所。二ノ丸から天守を見上げるような形。

大洲その2 城下町の趣残す大洲の街並み

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街中に戻りました。こちらは本町1商店街で小規模ながらもアーケードが設けられています……しかしこちらも全盛期から何十年か経過している感じで、うら寂しさが漂う。

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肱川通りを横断して東側へ、そのまま本町通り沿いを東進していきます。城下町の町割は肱川から近い順に本町、中町、末広町、片原町と町人町が並び、以南は武家町となっていました。

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和菓子屋の店先のガラスケースに、引菓子(干菓子)を作る際に使用された木型が展示されていました。菊の花、梅の枝、松葉、鯛を始め様々な種類が並んでいる……かつては職人が一つ一つ手作業で掘って作っていたのでしょう。こうした如何にも贈答菓子って感じの干菓子も最近では法事の供え物くらいでしか見掛けなくなりましたが、伝統の一つとして続いて欲しいなと思う所。

城下町として栄えた大洲には献上菓子を作っていた名残で和菓子屋が多い。大洲ならではの銘菓として、志ぐれ餅という小豆と米粉を練ったものを蒸籠で蒸し上げたという、羊羹でもういろうでもない独特の和菓子が存在します。

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古びた商店街を更に先に進むとレンガ造りの建物が視界に入りました。明治期に大洲商業銀行として建てられたもので、現在は『おおず赤煉瓦館』という観光施設として利用されています。内部では軽食も可能らしい。

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そのすぐ先にあるポコペン横丁なる一角。ホーロー看板を始めとした昭和レトロ的な物品が並べられています。毎週日曜日には駄菓子屋や射的、ボール掬い等の屋台が立ち並び縁日のような雰囲気を醸し出しているらしいですが、この日は火曜日で人の気配は無く静まり返っていました。

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大洲城の大手門から伸びていた本町通りも終端部となりました。

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丁字路から南北に伸びる通りがかつての宇和島街道で、志保町塩屋町)と呼ばれる町はこの通り沿い。町名は藤堂高虎の支配であった頃、塩の売買を行う場所として整備された事から名付けらました。大洲の城下町の中では最初期に築かれた町ともされています。

渡し船が存在した頃は大洲においての商業的中心でしたが、肱川橋の架橋に伴い中心はその橋のたもと、バスを降りた大洲本町のバス停付近に移りました。

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志保町の街並み。街道沿いという事もあり、大正の終わり頃までは人通りが多く賑やかな街だったという……こちらにも志ぐれ餅を作る和菓子屋が。

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少し南の方に移動すると古い商家の建物が立ち並ぶ一角があります。特に黄色の漆喰塀が一際目を引く。

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志保町の終端部。付近にはこの大洲の町の総鎮守である大洲神社があったり、明治期に建築された茶屋で重文にも指定されている臥龍山等回るべき所は多いのですが、時間切れとなり叶わず。

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志保町から西に伸びるおはなはん通りNHK連続テレビ小説のロケが行われた事から名付けられたこの通りには白漆喰の土蔵が立ち並ぶ統一感の取れた風景が続いています……といった感じに所々で古い建物が残る大洲の街並みですが、重伝建の指定は今の所受けていません。

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おはなはん通りの様子。道の脇には水路が流れており、その上に季節の花が植えられていました。

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大洲の城下町の中も重点的に保存活動を行っているのか整備が行き届いており、観光ガイド等でも紹介される事の多い街並み。しかし00年代の初頭頃までは荒廃しており、土蔵の漆喰が剥がれて内部の土壁が剥き出しになっていたりと痛々しい光景が広がっていたという……その後、2004年に大洲城天守が再建された事を皮切りに街並みの保全事業が行われるようになった。

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こちらにもロケ地の紹介看板が。朝ドラって50年以上昔からやってるんですね。

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途中には格式高そうな料亭があり、入口にはランチメニューが広げられていました。価格は1,000円を少し越える程度で店構えにしては手頃。

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おはなはん通りと付近にある教会。

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こちらはかつての町割では末広町と呼ばれた通りでしょうか。料亭だったと思われる建物があったり、古い旅館が残っていたり、やや寂れながらも飲み屋街っぽい所があったり。

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肱川橋通りに戻ってきました。これより肱川橋を越えて伊予大洲方面へ……途中、橋の欄干越しには大洲城が見えました。

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肱川の川面……愛媛県最大の河川ですが、渇水期なのか水位は低い。川岸には遊覧船が幾つか停泊しているのが見えます。

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川を渡った所からは国道沿いではなく旧道っぽい道を選択。この道はかつて松山大洲を結んでいた大洲街道で、街道に沿う形で商店街が続いています。

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肱川越しの大洲城。桜の花に包まれた天守は絵になる。

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かつての街道沿いに暫く進んだ所、味噌や醤油の醸造所が向かい合う形で2軒並んでいます。土産に味噌を買うのが個人的に定番なので、どちらかに立ち寄ろうと思うのですが……迷う。

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悩んだ挙げ句、矢野味噌の方でレギュラータイプの麦味噌を購入しました。この付近は瀬戸内麦味噌という名の通り麦味噌が主流。

九州のものもそうですが、麦味噌は麹歩合が高いものが多い為に甘口傾向のものが多い。ただ、こちらも甘口には違いないのですが、九州で買った試した幾つかの麦味噌とは味がだいぶ違う……何が違うのかと聞かれると窮する所ですが、これが地域色の違いというものなんでしょう。

そうした地域色の違いを手軽に楽しめるからこそ味噌は面白い。

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駅の方に向かって街道沿いに北上していきます。鉄道が開通して以降はこちらの方に商業の中心が移ったのでしょうか、最初に降り立った大洲本町の辺りと比較すると人通りも多く賑やかで開いている店も多いです。

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街道沿いから途中で折れて駅前の方に向かいます。周辺にはショッピングモールもあり、この規模の地方都市としてはそこそこ栄えている。

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伊予大洲の駅舎と構内です。古い木造の平屋建てのもので街の規模にしてはコンパクトな駅舎ですが、内子線が分岐する予讃線の拠点駅の一つでもある……先程回った卯之町付近では日中の普通列車が殆どありませんが、ここから松山方面は1~2時間に1本は走っているので一安心。

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乗車予定の予讃線普通列車が、単線の線路を辿りながらゆっくりと入線……大洲城が背後に見えますね。

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時間帯としては昼前ですが、付近の高校の帰宅時間帯と重なってしまったらしく車内はそこそこ混雑していました。

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途中の新谷駅で列車交換待ちです……暫くするとアンパンマン塗装の特急列車が反対側の線路を駆け抜けていきました。

新谷大洲藩から1万石分知され立藩した新谷藩陣屋町で、小さな町には武家屋敷や古い町家が今も残る……こちらも歩いたら楽しそうな街ではありました。

内子その1 内子駅から内子座方面

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伊予大洲から4駅先の内子駅で下車します……と、本日は数駅の小移動が続く。すごろくをやっているような感覚。

内子駅は元来盲腸線であった内子線の終着駅でしたが国鉄民営化の直前、向井原から分岐して伸びてきた予讃線が接続しショートカットルートの本線として整備される事になり、その関係で内子駅も盲腸線時代の場所から移転。現在のような周囲の田園風景から少し浮いた感じの高架駅へと変貌を遂げました。

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駅舎……というか窓口を始めとした旅客設備そのものは、高架下に簡易的にくっつけたような構造で簡素そのものです。しかし内子町の中心駅で特急も停車する主要駅の一つなので駅員の姿もある。

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内子駅の駅舎と駅前広場。一般的な高架駅を駅舎と記載するのは少し語弊があるように感じますが、この駅は駅舎と呼んでも差し支え無さそう。

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駅前にはかつての盲腸線時代の内子線で使用されていたSLが展示されていました。形式は宇和島和霊公園で見かけたものと同様のC12で、主に簡易線クラスのローカル線で走っていた他、駅構内での貨車の入れ替えでも使用されていました。

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市街地に向けて歩き始めます。元々の内子駅はもう少し中心街の方に寄った場所にあったのですが、移転時に若干南側に離れてしまいました。

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内子には重要伝統的建造物群保存地区にも指定された八日市護国という地区があるのですが、その手前から既になまこ壁を持つ古い町家がちらほら。

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途中、内子座という古い芝居小屋があるので立ち寄ります。中に入っている時間は無さそうなので外観だけでも。

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こちらがその内子座の建物……大正期の建築で圧倒させられるような存在感を放つ。現役の芝居小屋で、一時期は老朽化で取り壊しの危機にあったものの改修、再び文楽や歌舞伎等の公演で活用されるようになりました。

催し物の無い日は内部の観覧も可能。近年なって重要文化財の指定も受けている。

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重伝建の八日市護国方面に進んでいきます。この道は先程大洲の街でも歩いた大洲街道で、街道沿いは商店街が続いています。

この付近の地区名は六日市。中世頃の城下町であった時代、市場町(決まった日に市を設ける町)として六日市、七日市(現在の八日市)、廿日市と整備された内の一つ。

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街道沿いで一際存在感があるレトロモダンな建物は元は内子警察署として建てられたもの。現在は内子町ビジターセンターという観光案内所として活用されています。

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開いている店も多く、それなり賑わっている印象の街道沿いの商店街。途中、良さげな感じのパン屋を見つけたので昼食用に調達。

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白漆喰の古めかしい建物が見えてきました。こちらは元々は薬問屋を営んでいた商家で、内部は『商いと暮らし博物館』として、人形等を使って当時の情景を再現した展示が行われています。

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伊予銀行内子支店がある交差点を左に折れた先が重伝建地区の八日市護国となります。

内子その2 八日市護国、黄漆喰で統一された街並み

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八日市護国に入ってすぐという所には森文醸造という醤油や味噌、食酢の製造を主とした醸造所があります。水戸黄門を模したようなキャラクターが待ち構えていたり、健康食品をやけにプッシュしていたりとB級感が凄いですが、醸造所としての歴史はそれなりに古そうな様子。

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森文醸造以降、古い家並みが続く八日市護国……八日市護国という名はこの付近の市場町であった八日町と、北部にある高昌寺付近の護国という地名を合わせたもので、この付近は八日市の方に属しています。

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内子の古い街並みで特徴的なのがこの黄漆喰で塗られた商家群です。黄漆喰は漆喰に黄土を混ぜて色を出したもので、先程回った大洲の町でも僅かですが見られましたね。

保存地区そのものの規模も大きさもさる事ながら、この暖色系に統一感のある風景は内子ならではと言えるでしょう。

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大洲街道と幾つかの河川が合流した盆地に位置している内子は古くから物資の集散地として栄えましたが、中世頃までは北部に存在した曽根城の城下町で、現在の六日市や八日市といった市場町の原型もその頃作られたとされています。

街並みの途中には城下町だった時代の名残でしょうか、小さな枡形、クランクとなった箇所が存在します。

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枡形の後も黄漆喰の街並みは続きます。内子は前日回った伊野と同様に元々は和紙の製造で栄えた町で、大洲和紙という名の交易品で知られていました。その後、江戸後期に入ると当時では最先端の技法である『伊予式蝋花箱晒法』を使用した木蝋(櫨を使用した蝋燭、いわゆる和蝋燭)作りが盛んになり一気に発展。最盛期となる明治中期頃は国内の木蝋生産地においてはトップシェアだったとされています。

街並みを構成しているのはその当時に木蝋の製造や売買を営んでいた商家の建物で、木蝋作りが盛んであった幕末から明治頃にかけてに建てられたものが中心。当時の繁栄ぶりを窺えるような豪奢な作りのものが多いですが、大正頃からパラフィンを使用した洋蝋燭が普及した事により衰退。現在では伝統工芸品として僅かに製造されている程度です。

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高層の土蔵を持つ本芳我家住宅。本芳我家は内子では最大の晒蝋(木蝋を日光に晒して漂白する)業者で、隣接する大村家住宅と共に重要文化財に指定されています。

土蔵は規模も大きいですが、なまこ壁、上部に鏝絵と贅を尽くしたような作り。

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古い商家の建物が続く。右の写真は本芳賀家住宅の母屋、屋根の妻に装飾として象られた懸魚が見えます。

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700mという広範囲に渡って続く八日市護国の街並み。愛媛県の重伝建では第一号でそれなりに観光地なんですが、コロナ禍という事で人気は殆ど無く、開いている店も僅かでした。

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ややカーブがかった所の街並み。雰囲気は良いのですが、人気があまりにも無くて少し寂しい。

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一つ前の写真の縦バージョン。路面のアスファルト以外は明治頃と殆ど変わらない光景。

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先に進むと再び立派な建物が見えてきました。こちらは上芳我家住宅で、先程の本芳我家の分家に当たります。建物内部は木蝋資料館として一般公開されており、実際に木蝋をどのように製造し、携わる人々はどのような生活を送っていたのか等、当時の設備や用具と共に細かく解説されているとの事。こちらの建物も重文指定。

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更に先に進んでいきます。黄漆喰の建物が連綿と続く様は圧巻そのもの。

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八日市地区と護国地区の境となる橋の手前に清正広場と、古い商家の建物を利用した休憩所があります。

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朝から飲まず食わずで休みなしに歩き回っていたので、先程通りがかったパン屋『ベーカリーえーもん』で購入したパンで補給。この規模の町のパン屋にしては洗練されており、生地はもちもち。小麦の香りも立っている。

ちょっと前までは地方の小さな町なんかに行くとヤマザキショップデイリーヤマザキではない)くらいしか見かけませんでしたが、最近に入って凝った感じのパン屋が増えつつある気がします。

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この橋を渡った先が護国の街並みとなります。八日市護国と一緒くたにされているように、そのまま街続きとなっている。

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橋の上から東側を眺める。盆地にある内子の市街地でもこの付近は少し奥まっており、山裾とも言えるような場所。

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橋を渡ったすぐの所に三叉路があり、右側の道沿いはそのまま街続き、左側は護国の地名の由来となった護国山高昌寺という寺院に続いています。

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護国の街並み。タラの芽が多く出回る季節。

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商家の二階部に設けられた虫籠窓と鏝絵。

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保存地区の終端部に到着。伊予銀行の交差点から絶え間なく続いていた古い町並みはこれにて途切れました。

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内子駅方面に引き返します。同じ街並みでも逆側から見ると少し印象が異なる。

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往路では気付かなかった、屋根の妻に掲げられた家紋。

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先程の三叉路北側のカーブと、清正広場付近の稲荷神社。

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護国の終端部近くに観光用の駐車場が整備されているようで、そちらの方からバスツアーっぽい方々がぞろぞろと……ひっそりと静まり返っていた街に少しだけ賑わいが。

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二階部のなまこ壁と虫籠窓。

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上芳我家住宅に戻ってきました……なんだか雲が厚くなり薄暗くなってきたような。

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本芳我家住宅付近。

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屋根の妻に掲げられた装飾シリーズ。

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往路でも通った枡形。一見すると行き止まりのようにも見えますが、近付くと道が続いているのが見える。

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枡形を越えた先。山側の護国から谷側の八日市に向けては下り坂が続いていますが、この付近は特に斜度があり、土台が段状になっている。

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付近には幾つか無人販売がありますが、こちらでは野菜に梅干し、干し椎茸、マ手作りマスクと充実していました。梅干しと干し椎茸はちょっと欲しかったかも。

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水戸黄門の前まで戻ってきました。

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伊予銀行に到着し大洲街道に合流……その向かいにある鮮魚店、『かつ盛鮮魚店』が往路でも気になっていたので覗いてみました。

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ケースの中の鮮魚はマダイやカンパチ、青魚といった瀬戸内海っぽい顔触れが……カツオや太刀魚といった魚が並んでいた須崎の魚屋とはまたラインナップが違いますね。惣菜の方も種類が豊富で面白いです。

刺身もそうですが、特に気になったのは冷蔵ケース上段に並べられたフカのみがらし丸寿し。どちらも南予地方の郷土料理との事で、フカのみがらしはフカ(サメ)の湯引き。丸寿しはアマギ(イボダイ)を酢で締めたものを酢飯ではなくおからの上に載せたもの。どちらも気になりましたがフカのみがらしの方を選択……したのですが、丸寿しの方もやはり気になり追加で購入。

しかし海が遠い山間の町である内子、魚介をどこから仕入れているのか……肱川水系なので大洲か河口域の長浜かと思いきや、豊予海峡近い八幡浜との事でした。八幡浜と言えば、今回は卯之町からバスでR56沿いに北上してしまったので経由すらしてませんが、初めて四国に来た時に蜜柑をお土産に購入した思い出深い街なので、いつかまた立ち寄ってみたい街ではあります。魚とか絶対に美味そうですし。

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途中で見かけたはっさく3個100円。傷んでいるものも多いとはいえ余りにも安い。流石は愛媛。

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往路でも見かけたビジターセンターの建物。元々警察署として建てられただけあって重厚な造り。

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『内子、春の地酒』なんて唆られる立て看板も帰り道で発見。内子の町内には2軒ほど酒造があり、そのうちの一軒は市街地から徒歩圏内なので立ち寄ろうと思っていましたが……この日は卯之町で1本調達してしまったので見送りに。4合瓶とはいえ流石に4本担いで歩くのはしんどい。

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内子駅に帰還。ホームに上がり松山行きの列車に乗り込む。近代的な高架のホームに入ってくる1両の気動車のミスマッチ感が中々。

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途中の伊予中山で特急列車との交換。ここも特急が頻繁に走る線区なので、ちょくちょく交換待ちで停まる。

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北伊予にて今度は特急列車の追い越し待ちです。ホーローの駅名看板を掲げる瓦葺きの古びた木造駅舎……の割には構内に架線が張り巡らされていて、こちらはこちらでなんだかミスマッチな感じが。予讃線は途中の伊予市駅から先の区間は電化されており、なんとなく垢抜けた雰囲気になります。

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ぽつんと佇む1両の気動車と松山方面に続く線路。この駅は元々は2線のみの構造でしたが、かつて松山駅にあった松山運転所JR貨物松山貨物駅がこの付近に移転した事で出入庫により往来が増える事から、最近になって1線増やしたという。

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暫く待っていると2両編成の特急が高速で駆け抜けていきました。

松山散歩 松山城をピンポイント観光

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県庁所在地である松山に到着しました。1番線の所に先程北伊予駅で追い抜かされた特急列車が停車しており、その前方に高松・岡山の両方面に向かう列車を併結した特急列車が停車している。

数年前までは松山を跨いで通しで運行される特急列車も多かったのですが、現在は完全に運行系統が分断されており、乗り換え客の便宜を図る為か写真のように同じホームに縦列で停車する光景が見られる。

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改札口へと向かいます。みかんの県の県庁所在地らしく、みかん色に塗られた改札ラッチが並んでいる。

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県庁所在地の駅というと高架化したり、駅ビルやホテルとの合築になったりと色々とありますが、殊に松山駅はノスタルジー感溢れる一昔前の地平駅舎が現役で使用されています……しかし高架化が決まっており、こうした風景が見られるのも残り僅かだったり。

改札口越しに1番ホームが見えるこの雰囲気、なんだか懐かしい感じがして好きなんですけどね。

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駅舎内には今治市のご当地ゆるキャラである『バリィさん』の人形が置かれていました。

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松山での滞在時間は僅か1時間半。四国一の大都市は丸一日掛けても回りつくせませんが……時間の問題で、今回は行った事のない松山城のみに絞って観光する事にしました。

松山城までは少し距離があるので、駅舎の横に併設された事務所でレンタサイクルを借りる。手荷物預かりも受け付けているとの事だったのでそちらもセットで。

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前日回った高知と同様に松山路面電車が走る都市で、駅前を臨むと新旧の車両が走っている様子が見えました。

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松山路面電車網は伊予鉄道松山市内線という名称で高知よりも規模は小さいですが、軌道の市内線とは別に普通鉄道の郊外線が運行されており、名の通り郊外の3方面に路線を伸ばしています。

郊外線の本数は15分おきと地方の鉄道にしては高頻度で、特急を除くと1時間に1本しか来ないJRと比べると市民の足として定着している印象。その郊外線のターミナルである松山市駅はJRとの接続がない伊予鉄道の単独駅ながら、利用者数は市内の松山駅どころかJRを含めた四国の鉄道駅の中で最も多いという。

松山駅から少し東に進んだ所に郊外線の大手町駅があります。駅に隣接した道路上には市内線の軌道が敷設されており、線路同士が直角にクロスする(ダイヤモンドクロッシングと呼ばれる)全国的に見ても稀有な箇所があります。タイミング次第では踏切で電車を待つ路面電車の姿が見られたりするとか。

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自転車を漕いで松山城方面へ。右の写真は郊外線のターミナルである松山市駅に続く方面を覗いた所。軌道線も駅前に乗り入れており、その手前の交差点では線路が3方面に分岐しています。

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松山城の内堀。堀に囲まれた場所(堀ノ内)には三ノ丸の広大な敷地があり、かつては上級武士の屋敷が立ち並んでいました。その堀からは遥か高い所にある天守が見えます。

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四国に入って丸亀城高知城大洲城と城郭巡りを続けてきましたが、こちらは結構な標高差。松山城は標高132mの勝山という山の頂に築かれた平山城で、古い版の地形図ではその山の名前から勝山城と記載されています。

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ドーム型の一際目を引く愛媛県庁の建物の脇から城の直下に接近。二ノ丸のすぐ下の所の駐輪スペースに自転車を停めて登り始めます。

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天守に続く道の一つである県庁裏登城道。登山って程ではないものの結構な登りで、ロープウェイも運行されている程。

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見上げると石垣が延々と続いているのが見えます。これは登り石垣というもので、山中からの侵入を防ぐ為に麓近くの二ノ丸と山上の本丸の石垣同士を繋いだとされている。

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ロープウェイの駅との分岐である長者ケ原を通り過ぎ、更に先へ進むと本丸東端に建つ巽櫓が見えてきました。

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天守に直接伸びている道もありましたが、ここはやはり昔からの登城路を辿ります。一旦南側に迂回して戸無門、筒井門方面へ。

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途中の中ノ門跡越しにこれから向かう天守が見えました。こちらの城の桜も見頃です。

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名前の通り門扉が設けられていない戸無門を潜って本丸へ。簡素な作りですが江戸初期に松山城として築城された際の最初期の建築物で、後に再建された天守よりも古く重要文化財にも指定されています。

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筒井門の手前の見事な桜の木。

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筒井門を抜ける頃、下界を見下ろすと結構な高度感……しかし黄砂が酷く殆ど見通せない。

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太鼓門を潜ります……こちらは昭和期の再建。現存天守を持つ松山城ですが本丸に設けられていた設備の幾つかは戦災や放火で消失しており、後々再建されたものも多い。

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太鼓門を越えた先には南北に伸びたような形の山上に広がる本丸広場となります。広大な本丸の中でも北部の曲輪は本壇と呼ばれ、そこに天守や付随する櫓などが立ち並んでいる。

本丸広場までは自由に入る事ができますが、本壇から先は有料となります。入場の際はこのご時世なので検温や連絡先の記入など色々と……。

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入場口を潜った所から天守を見上げてみる。江戸時代から続く現存天守ではありますが、江戸期初頭の築城当時のものは落雷で焼失してしまい、現在残るのは江戸末期の黒船来航の前年に再建されたもの。現存十二天守の中では最も建築年度の新しいものとなっています。

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一ノ門を潜り先に進みます。右はニノ門南櫓で、こちらも天守と同時期の再建。

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筋鉄門を潜った先に天守広場があり、そこから入城します。本壇にある幾つかの櫓は渡櫓と呼ばれる廊下で写真のように連結されており、内部で行き交う事が可能な構造。

小さいながらも立派な天守が残る松山城ですが、山の上という立地上不便な為か、政庁としての機能は早い内に二ノ丸へと移されており、天守が建つ本丸は専ら倉庫として使用され、有事の際の詰城という役割でした。

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内部は資料館となっており、武器や甲冑等が展示されている。

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特に面白かったのがこの江戸時代の落書き。天守の再建に携わった大工が描いたものとされている。

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内部の様子。狭間と呼ばれる銃を突き出す穴が幾つか設けられている。

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天守最上階に到着。閉場間際なので人の姿は少ない。

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北側の展望。天守の標高は161mと高い所にあるという事もあり、晴れた日には石槌山佐田岬半島まで見えるという絶景スポットとの事……でしたが、黄砂の到来でこの有様。すぐ近くに広がっているはずの瀬戸内海すら見えませんでした。

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天守から西側方面の展望。すぐ先の所に北隅櫓、南隅櫓が見え、天守とは渡櫓で繋がっている。その奥には乾櫓が見えますが、こちらは築城当時のもので重文に指定されています。

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南側、先程歩いてきた本丸広場松山の市街地が眼下に広がります……が、やはり霞み気味。右手前の天守の鯱の辺りに見える観覧車は松山市駅の駅ビルで、その左下に軌道上を走行する路面電車の姿も見える。

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天守を出て東側にある天神櫓。天神という名前の通り菅原道真に関連したもので、一見すると神社と見紛うかのような作り。

松山藩の初代藩主でもあり、この松山城の城主であった松平定行のルーツとなる久松家の出自は菅原道真とされており(菅原道真の孫の幼名が久松麿であった事が姓の由来とされ、後に久松性を称するようになった)、祖先を崇拝する為に設けられたものと思われます……が、実際は他の櫓と同様に武器の保管庫として使用されていました。

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出口から見上げる二ノ門南櫓。右は先程の天神櫓を下から見上げたもの。

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本壇に建つ天守と櫓を見上げる……こちら側はカラフルな和傘で装飾されていました。正面に先程登った天守天守)、左手前に天守、右側に一ノ門南櫓という位置関係です。左下には紫竹門という門が設けられており、先程天守から見下ろした乾櫓の方に続いています。

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紫竹門付近から桜の枝越しに馬見櫓、太鼓櫓

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こちらは逆に、太鼓櫓付近から馬見櫓、小天守、乾櫓を振り返った所。長々と続く石垣が立派です。

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本丸広場の桜と天守。桜を見物する人々の姿。

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戸無門を潜って往路をそのまま引き返します。少し先から先程登った天守が見えました。

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戸無門とその上部に位置する筒井門。筒井門の手前に咲く桜の花が石垣から覗かせていました。

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こちらは往路ではそのまま通り過ぎたロープウェイ乗り場。時間的にあまり余裕がないので利用も検討したのですが、自転車を置いてきた県庁裏登城道の入口とは真逆の方向に降りてしまうので却ってロスになりそう……という訳で、登ってきた道をそのまま下ります。

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県庁裏登山道の下り坂。この地点から20分以内に松山駅に戻らなくてはならなかったので、結構ガチ目のダッシュで下りました。

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自転車を回収した後に通過した三ノ丸。かつては上級武士の武家屋敷が並んでいましたが、明治の廃城後は日本陸軍の管轄となり駐屯地として整備。第二次世界大戦後に今日のように公園として整備されました。

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三ノ丸から眺める二ノ丸、そして本丸に建つ天守。こうして見上げると結構な距離感です。

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松山城天守を望遠で……天守とは書きましたが、手前の天守に隠れて天守は殆ど見えませんでした。

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見物を終え、急ぎ松山駅へ向かいます。この日は常に時間を気にしながらの慌ただしい一日でしたが、最後の松山観光はその慌ただしさの極致という所でした。

【移動】翌日の瀬戸内海越えに備え今治

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松山駅併設の荷物預かり所で自転車の返却&ザックの回収を行います。17時の営業時終了の10分前の到着と、中々のギリギリさでした。

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松山駅と改札を抜けた先のホーム。この後は今治まで移動を予定していますが、この日は18きっぷ利用ではないので鉄道の利用に拘る必要はなくバス利用も選択肢に入ってきます。

松山から今治までは列車の普通運賃と高速バスの料金が殆ど同額だったので、確実に座れるであろう高速バスの方を選択……したもののタッチの差で出発。次発は1時間後という訳で鉄道利用となりました。

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松山駅裏手の松山運転所の跡地です。かつては広大なヤードが広がり様々な車両が屯している光景が見られましたが、南伊予駅付近への移転に伴い剥がされて殆ど更地と化しています。奥に見える機関庫や事務所の建物がその名残ですが、こちらも早晩撤去されるのでしょう。

駅に併設して車両基地を設けるという構造は国鉄時代、もしくはそれ以前に整備された主要駅でよく見られた形態ですが、こうした構造の駅も高架化等によって着実に数を減らしつつあります。

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ホームでうろうろしていると乗車予定の伊予西条行き普通列車が入ってきました。編成は2両、帰宅時間帯なのでそこそこの混雑でしたが普通に座れる程度でした。

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松山駅のホーム。もし次に来る事があれば、その頃には近代的な高架駅に姿を変えている事でしょう。

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途中の伊予北条駅にて列車の交換待ちです。古びた感じの駅舎が残りますが、旧北条市の中心駅で一部の特急も停まる主要駅の一つ。

北条は今回の旅行における散策の候補に入っていた街。戦国時代以前にこの付近を治めていた河野水軍の発祥の地で、沖合に浮かぶ鹿島には基地が設けられていました。江戸期に入ると松山と今治を結んでいた今治街道の宿場町として発展したようです。

見所が多そうな街だったので惹かれたのですが、今回は見送り。

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今治の手前の波止浜で列車の交換待ちです。この頃になると辺りも暗くなってきました。

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本日の最終到着地である今治駅に到着。翌朝、朝一のフェリーに乗り込む為の移動でした。

今治愛媛県内では県都松山に次ぐ第二の都市……というだけあって、ホームの雰囲気もなんとなく都会的。停車する電車は相変わらず短いですが。

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瀬戸内海に面した工業都市として知られる今治ですが、今治と言えばタオルと連想される程にタオルの生産で有名。駅にも展示がありました。

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駅の改札口の様子。右側に駅弁屋が店を構えています。四国の駅弁販売駅は僅か4駅のみにまで減少し貴重な存在となりましたが、その貴重な1駅がこの今治駅

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内子の魚屋にて刺身等の酒のつまみになりそうなものは買い込みましたが、主食が足らないという事で鯛めしを一つ。今治駅弁のメインとも言える存在ですが、幾つか種類がある中で最もシンプルなタイプ。

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松山駅でも見かけたゆるキャラ『バリィさん』の人形。姿形は全く同じ。量産されているんでしょうか。

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駅の外に出ます。今治の中心街は海寄りに少し離れた所にある為か、駅の周辺は愛媛県第二の都市の割には寂れた印象を受ける。人通りも少ない。

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市役所に隣接して船のスクリューのレプリカが飾られています。今治はタオルを始めとした繊維産業で有名ですが造船も主産業の一つで、日本国内においてはトップシェアであり世界でも第4位の建造量である今治造船が市内に所在している。

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今治港へと続く大通り。この付近が元々の今治中心市街地で、バスターミナルやアーケード街などがあります……が、こちらも静か。地方都市はどこもこんなものでしょう。

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翌日のフェリーの時間も早いので、この日は適当に野営としました……そして待ちに待った夕食の時間。つまみ各種は内子の『かつ盛鮮魚店』にて調達したもので、刺身はカンパチとタコ。特にカンパチはもっちりとした食感が最高でした。

上に並んでいるのは丸寿しフカのみがらし。丸寿しは酢飯の代わりにおからを使用したアマギ(イボダイ)の寿司ですが、甘めの味わいのおからの中にネギや生姜が入っているのがアクセント。フカのみがらしはフカ(サメ)の湯引きで身は淡白そのものですが、濃厚な酢味噌とよく合う……つまみだけでも中々のボリュームでした。

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つまみにはお酒です。四合瓶は卯之町宇都宮酒造で購入した花神ですが、試飲はできなかったので味わうのはこれが初めて。味の傾向としてはさっぱりとした甘口。アルコール度数は9度と控えめですが水っぽいという事はなく、桜の花を思わせるような華やかな味わいが口一杯に広がり満足感は上々……ガブガブと晩酌で頂くタイプではなく、ハレの日に鮮やかな色合いの盃やワイングラスで呷ると映えるような、そんなお酒でした。

締めは先程今治駅で購入した駅弁の鯛めし。鯛と一緒に炊いた出汁の効いたご飯の上に、鯛のほぐし身を乗せたシンプルなもの。ほぼ見た目通りで裏切られない美味しさ。お酒を飲んだ後の締めとしてはこの上ないものでした。

次回記事『10日目 芸予諸島巡り、大崎上島と大崎下島』に続く。

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