北近畿登山旅行7日目 帰路、篠山観光
氷ノ山登山という旅の主目的を果たし後は帰るのみとなった最終日。よって殆ど移動のみの一日ですが、時間の余裕が少しあったので篠山の観光を行いました。前泊した豊岡を出発して福知山まで山陰本線、福知山からは福知山線と乗り継いで篠山口、そこから更にバスで篠山の市街地へ。重伝建の指定も受けている河原町の街並みや江戸初期に天下普請によって築城された篠山城を始め市内には見所は多く、帰り際の余った時間の散策程度では到底回りきれませんでした。篠山口からは東京都内まで怒涛の電車乗り継ぎとなりますが、この日は青春18きっぷの利用期間最終日でもあり、また日曜日でもあった事から車内は混雑極まっており、乗り換えの度に椅子取りゲームが開催される過酷な道中が静岡辺りまで続きました。
「氷ノ山方面登山その3」の続きの記事となります。
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目次
【移動】豊岡から篠山口へ
夜明けを迎えた豊岡市の街並みの様子。空は次第に明るくなりつつありますが、街はまだ深い眠りに就いている。車が走る音も殆ど聞こえて来ず、少し離れた豊岡駅の構内を出入りする電車の音が響く程度。
朝方の駅前商店街。前日の夜と同様に人気というものが感じられない。動きを見せているものと言えば黄色の点滅を繰り返している信号機くらいでした。
豊岡駅に到着。10年くらい前に改築された橋上駅舎ですが、改めて見るとデザインが結構奇抜ですね。曲線が用いられた屋根部分は豊岡が生息地として知られるコウノトリ、その右側のモザイク状の外壁は豊岡の特産である鞄……そのルーツとなった柳行李をモチーフにしたとか。
すぐ隣のロータリーに面した所には、改築前の地平駅舎を模したとされる待合室が建っています。
10年以上前の写真になってしまいますが、こちらが豊岡駅の旧駅舎。主要駅相応に大きく、それでいてどこかレトロさを感じさせる木造駅舎でした。
橋上駅舎内のコンコースには、地方の駅に行くとよくある特産品の展示コーナーが設けられていました。豊岡と言えば鞄の生産が日本一の鞄の街という事で、ケースの中には市内メーカーによる様々な鞄が並べられている。
豊岡駅のかつての駅舎と面していた1番ホームに設置されている鞄の自動販売機。薄手の帆布で作られたトートバッグが販売されていて、自分も以前一度だけ買った事があります。
自販機で売れるようにする為か、普段遣いするにはサイズは小さめで使い所を選ぶので、もう一回り二回り大きいものが欲しいな……と駅を訪れる度にラインナップを眺めては通り過ぎているのですが、今回訪れたら自販機そのものが稼働していませんでした。鞄の街ならではの名物自販機なので残して欲しい所ですが。
豊岡駅のホームに移動する頃には空がだいぶ明るくなっていました。兵庫県北でも随一のターミナル駅という事で構内も広々としており、ヤードの先には山陰本線の浜坂方面や播但線で使用される気動車が幾つか屯している。
山陰本線の電車に乗り込み数駅。今回の氷ノ山登山の出発地であった八鹿駅を通り過ぎる……地図を見てみると八鹿から若桜、鳥取、豊岡と経由して一周してきた形になるようです。
三日目の夕方、次第に暗闇に飲まれつつあったこの駅から期待と不安を抱えつつ歩き始めたのがつい先程の事のように感じる。
福知山にも戻ってきました。こちらは最後に訪れたのは大江山登山に臨むべく宮福線に乗り換えた一日目の夕方、大凡一週間ぶりの再訪という事に。
本日の最初であり最後の訪問地である篠山はこの駅を終着とする福知山線の沿線にあるので、そちらの方面への乗り換え。
時刻は午前7時前、都市部に向かう特急が発車する時間帯なのか、幾つかの特急の車両が忙しそうに出たり入ったりしていました。
途中の黒井駅にて列車交換待ち。この駅の徒歩圏内に戦国時代の山城である黒井城の城跡があり、今回の散策候補の一つでもありました。
黒井城は織田信長からの命で明智光秀が行った丹波平定の際に攻城戦が行われた場所で、当時は丹波の赤鬼とも称された赤井直正が当時の城主を務めていました。一度は光秀の包囲網を耐え抜いたものの、直正が病没した数年後に再び攻め込まれ落城。
この城は但馬の竹田城等と同様に中世山城らしい姿が良く残されており、数年前に放映された明智光秀主人公の大河ドラマ『麒麟が来る』を見て以来(黒井城の戦いそのものはナレーションのみでスキップされ、本編終了後の紀行でも取り上げられませんでしたが)一度は行ってみたかった場所だったのですが、今回は篠山の方を優先して観光する為に見送り。
駅ホーム脇に立つ桜の木。黒井城は奥に見える山の上にあり、麓から登山道を辿っていく形となります。
更に暫く電車に揺られて篠山口駅に到着。こちらの駅がこれから回る篠山の最寄り駅ですが、駅名に口とあるように篠山の市街地まで少し距離があるのでバスに乗り換えます。
観光地の駅らしく近くにレンタサイクルもありますが、見所が比較的密集していて徒歩で観光した方が効率良さそうだと思った事と、料金がバスの往復料金より高かった事もあって今回は利用せず。
篠山観光その1 重伝建地区、河原町妻入商家群
篠山の中心市街地……を若干通り過ぎたような所にある篠山営業所のバス停を今回の散策の開始地点としました。ちょっとしたバスターミナルとなっているようで、構内には沢山のバスの車体が並んでいる。
バスの営業所は中心市街地から川向かいの町外れのような所にありますが、周辺には白漆喰の町家や元々茅葺きだったと思われる古くからの民家も散見される。
隣接する道路は元々は篠山街道という、京都側の亀岡から篠山、旧氷上郡を経て和田山に通じていた街道で、江戸時代より以前は主要街道である山陰道のルートとして使用されていました。古い家並みが道沿いに暫く続いているのはその名残でしょうか。
加古川の支流である篠山川を歩いて越えます。橋の名前は京口橋。京口と言えば駅名になっている姫路のものを始め関西圏に多く存在する地名ですが、市街地から伸びる街道の出口の内、京都に向いた方面のものをそう呼んだのが由来。
川を渡った所から先が旧来からの篠山の市街地となります。密集した家並み越しに少し高い所に見えるのは、王地山の山上に建つ王地山公園ささやま荘という宿泊施設。温泉も引かれているらしいですが、コロナの影響で休館中との事。
市街地の入口に置かれた常夜灯。これから向かう重伝建地区、河原町妻入商家群の案内板も立っていました。
こちらがその河原町の街並み。篠山は篠山城の城下町として一般的に知られていますが、この地に街が作られたのは江戸時代以降で、安土桃山時代以前はこの地より南東、高城山の山上に築かれていた八上城が存在し、城下町もその山麓に整備されていました。
関ヶ原の戦い終えた後は江戸幕府による支配体制に移りましたが、その頃のこの地域は、当時徳川家と微妙な関係となっていた豊臣家が居城としていた大阪城と、豊臣家と親しい山陽、山陰方面の西国大名という構図にありました。そこで豊臣家が力を付ける事を危惧した徳川家康は双方の連絡を遮断する為、街道が交わる交通の要衝であった篠山盆地の中心に平山城を築城する命令を出します。こうして造られたのが現在の篠山城で、城下町の方も城の移転に際して八上城山麓からこの地に移されたとされています。
橋の方からの道の突き当りには何やら唆る感じの山菜の漬物を扱うお店が。八上屋城垣醤油店という醤油醸造所のようで、漬物以外にも醤油そのものも扱っているようでした。醤油を土産に買って帰るのは個人的に定番ですが、訪問時点では残念ながら開店前。
この河原町は城下町として最初期に整備されたエリアとされています。防衛上の理由から見通しが悪くされており、家並みに沿った道筋は不自然に蛇行している。
家と家の隙間にフィットしているような社と、その近くから伸びる本経寺への参道。参道を上がった先は王地山の山上まで道が続いているようです。
河原町の街並み。妻入商家郡と名乗っているだけあって、妻入りの商家建築ばかりが立ち並ぶ統一感のある街並みが形成されています。
建物の一つ一つは同じようでいて、よく見ると仔細な違いがある。そうした違いを見比べてみるのも楽しみの一つ。
観光地には違いないのですが、まだ9時前と時間的に早い為か人の姿は少ない。
白壁眩しい商家が多く残る街並み。伝建地区においては建物(ガワ)だけ残して実質空家で特に活用もされていないといったケースも割とありますが、この篠山に関しては大都市圏に近いという立地もあってか、どの建物も何かしらに利用されているように見えます。
河原町には骨董屋が数軒あり、その内の一軒では店先に印判の皿が並べられていました。そう高くないものなので土産に丁度良いなと思ったものの、こちらも未だ開店前……右下に見える山と茅葺き農家の皿なんか風流で良いなと思ったのですが。
妻入りの商家が続く様子。左の写真の畳店ではゴザや草履なんかも扱ってて少し気になった。
妻入り商家郡とは言え中には平入りのものも……それなりに観光客向けのお店が多く立ち並んでいる通りなのですが、どこもかしこも開店前。しかし観光客が少ないのでのんびりと見物できました。
途中で見掛けたやけに重厚な飾り卯建を持つ建物。その付近からは観音寺への参道が伸びる。この河原町には街並みに沿うように幾つか寺院が立ち並んでいますが、これらは有事の際に出城として利用される事を考慮して置かれたという。
河原町の商家群と、この街の特徴であるカーブがかった道筋。
終端部が見えてきた所。虫籠窓を持つ建物も多い。
古い建物が残っている範囲も広くて見ごたえがある街並みでした。
南北を通る道にぶつかった所。河原町から続いてきた町人町はここから北側に折れた方向に続いています。
交差点から西側は小川町というエリアで、河原町と同様に妻入の商家の建物が幾つか残っていますが、こちらは範囲はそこまで広くはない。
これまで歩いてきた河原町の街並みを振り返った所。次回訪れる際は最低限、店が開いている時間帯に。
南北方向の道、上立町と呼ばれているエリアを進んでいきます。先程歩いた河原町とは違い、こちらは曲がり無くストレートで先の方も見通せる。
こちらの方も古い建物が多少残っていますが、平入りと妻入りの建物が混在しており統一感はあまり感じられない。城下町として整備された年代の違いから来るものでしょうか。
通り沿いに建つ一際大きな建物は小田垣商店という丹波名物の黒大豆を扱う店舗。元々は八重垣酒造という酒蔵の建物だったという。
上立町から下立町の辺りに残る幾つかの古い建物。卯建を持つものも幾つか。
焼酎量り売りという、酒飲みにとっての誘蛾灯のように見えてしまう幟が気になった酒屋。
かつての町人町はそのまま篠山城の外周を囲うように続いていますが、その途中で折れて篠山城の東馬出へと続く道に入ります。この付近の古地図を見た限りでは、元々は侍屋敷が立ち並んでいた区画だったようです。
堀に囲われた東馬出の様子。馬出とは堀の対岸に設けられた小さな曲輪の事で、虎口(出入口)の防衛の為に作られた施設の事で、特に武田家や徳川家が築城した城に多く設けられたという。
東馬出に咲く桜。盆地に位置している冷涼な気候の篠山ですが、丁度桜の見頃を迎えている様子でした。
篠山観光その2 篠山城、天下普請で築かれた西国の防衛拠点
東馬出から篠山城の城内を目指して進んでいきます……奥に見える城を模したような建物は丹波篠山市の市役所。丹波篠山市は2019年に改称されるまでは篠山市という名でした。市町村合併を経ずに市名のみ改称というケースは割と珍しかったりします。
改称の要因は、平成の大合併に際して近隣の自治体が全国的にネームバリューのある丹波という、本来は広域名称であった地名を挙って付けてしまい状況が一変してしまった事にあります。
篠山は江戸時代以来、旧丹波国の政治的、文化的中心地の一つとも言える都市で、明治頃から既に『丹波篠山』という名で呼称されおり、特産品のブランドとしても知られていました。しかし平成の大合併により隣接した所に丹波市が生まれ『丹波・篠山』という丹波市と篠山市を合わせた表記が次第に使用されるようになり、兵庫県から混同の恐れがあるという事で丹波篠山という表示を控えるようにとの指導が行われてしまいました。
明治以来、丹波篠山という名で通ってきたので、改めて篠山という名前一本で勝負するのは厳しく、近隣の丹波を冠した自治体にブランド面で相対的に劣勢に立たされるのは明白。特に市内で産出される栗や黒豆等への影響が危惧されていました。そうした状況下で改称の機運が一気に高まり、現在の市名に改称されたという次第です。
ともあれ、結果として兵庫県と京都府との境には丹波を冠する自治体の名が乱立する事になってしまった訳ですが……旧来の地名が残っている篠山はともかくとして、広域地名やネームバリューのある名称を安易に付けてしまうのは少し躊躇して欲しいなと思う所です。
話が盛大に脱線してしまいましたが、これより篠山城の城内へ。外堀に沿って植えられていた桜の木が見事でした。
外堀の眺め。鏡面のような水面には桜の木が映し出されている。
外堀越しに臨む丹波篠山市の市役所と、かつての三の丸に建てられた丹波篠山市立篠山小学校。明治後期に建てられた木造の校舎が残されており、この令和でも現役で使用されている。
三の丸広場から内堀越しに二の丸方面を見上げる。当時、秀でた石積みの技術を持っていたされる石工集団、穴太衆による施工で、自然石を利用した野面積みながらも精巧に積み上げられた様が印象的。
桜や石垣を眺めながら三の丸広場を進んでいく。
三の丸広場の枝垂れ桜。
三の丸から二の丸方面に続く虎口となる場所には標柱が建っており、こちらが現在の実質的な城の入口と見られているようです。
篠山城は1609年に徳川家康によって、当時対立関係にあった豊臣家と、豊臣家に繋がりの深い西国大名を分断する為、当時山陰道が通過している交通の要衝であった篠山盆地の中心部、笹山(地名の篠山の元となった)という丘陵地に近隣の八上城から移転する形で築城されました。
その際は西国大名を始めとした諸大名の力を削ぐ為、江戸城等と同じく天下普請(幕府の命によって全国の大名が駆り出された土木工事の事)が行われ、僅か半年で完成。工事には当時、築城の名手として名高かった藤堂高虎による設計だったとされています。
しかし築城から僅か6年後に大阪の陣で豊臣家が滅亡。それにより篠山城の戦略的価値は低下しますが、以降も依然として西国大名への睨みを利かせる抑えの城として重視されており、城主を務める藩主には幕府の信頼を預かる譜代大名が配置されていました。
表門の跡地越しに大書院の屋根が見えています。城の完成を急いだという事もあってか、実戦向きの城(天守の存在は軍事面以上に、権力の象徴としての意味合いが強かった)とした為か、同時期に築城された他の城のような天守は築かれませんでした。
クランク状に続く内堀の様子。
石垣に打たれた刻印。専ら石垣用の石を管理する目的で刻まれたもので、天下普請で建てられた城では多くの大名が入り乱れるようにして築城に携わった為、刻印の種類も非常に多い。
中門の跡地を越えて大書院の入口へ。篠山城は天守は築かれなかったものの、篠山藩の居城という事で政務を執り行う施設としてこの大書院が建築されました。
建物は明治初頭の廃城令以降も残存しましたが、昭和期に火災によって消失。現在の建物は平成に入った頃の再建で、内部は資料館として公開されています。
大書院が建つ二の丸全体の様子。現在は大書院とそれに付随する幾つかの建物が残るのみですが、かつては二の丸御殿として城主の居館を始めとした諸施設が立ち並んでいたという。
二の丸から内堀と外堀に挟まれる形の三の丸を見下ろす。現在では建物は残っていないものの、かつては櫓や家老屋敷が置かれていたらしいです。
二の丸の御殿跡から大書院。平成期の再建ですが、木造で忠実に復元されたという事で雰囲気があります。
大書院の周辺の様子。御殿跡とされた場所には、ここには元々何が建っていた……といった案内が記されていました。
御殿跡と井戸。篠山城には井戸が3つ存在し、こちらはその内の1つ。御殿に隣接するような形で設けられていました。
桜の花越しの大書院。城跡には桜がよく似合う。
二の丸から南側にあるのが埋門跡。敵に攻め込まれた際に籠城戦となる場合、土で埋めて遮断できる構造となっている事がその名の由来との事。
二の丸の奥の一段高くなった所が本丸で、江戸後期から廃藩まで篠山藩の藩主であり城主を務めた青山家を祀る青山神社が設けられています。
大書院を始め様々な施設が存在した二の丸とは異なり、こちらは特にこれといった施設は建てられず、塀で囲われ櫓が設けられている程度の作りだったという。
切り株の上に屋根が乗った不思議な木と、その近くで咲いていた桜の時期には珍しい梅の花。切り株は元々は青山神社の御神木だったものが、戦後に雷に打たれて倒壊。その後も屋根が被せられ、現在に至るまで神聖視されている。
本丸から更に先に進んだ所が天守台です。築城を始めた当初は天守が築かれる予定であったものの結果的には設けられず、本丸のように塀や櫓が設けられたのみだったとされています。
天守台からの眺め。そこまで高い場所ではないので絶景という程ではないですが、眼下には三の丸に建つ篠山小学校の古い校舎群が見えています。ちなみに中央右に見える小高い山が、篠山城の前身となった八上城が築かれていた高城山。その独立峰然とした形状から、丹波富士とも呼ばれているらしいです。
こちらは南側。狭い盆地に立地しているという事もあり、すぐ近くという所まで山が迫っている。
城巡りを終えて大手門方面に移動しました。予定では大書院の内部も見学したかったのですが、思ったより時間が掛かってしまったので今回は残念ながらカット。
大手門から篠山の市街地方面を臨む。時刻もようやく午前10時を回り、人通りも増えてきました。
両岸を桜に囲まれた外堀を越えて篠山の市街地へ。堀の中を貸しボートで巡る事もできるようでした。
篠山観光その3 丹波篠山の名物を物色
篠山城から出てきてすぐの所にあるのが青山歴史館。藩主であった青山家の別邸であった桂園舎を利用した施設で、内部は博物館として一般公開されているようです。
この辺りも先程通った東馬出のように、大手馬出としてコの字型の馬出が整備されていたのですが、こちらは完全に埋め立てられていて駐車場や市役所の一部となっている。
篠山の中心市街地である二階町方面に進んでいきます。途中には大正ロマン館という西洋風の建物がありますが、こちらは元々役場として建てられたもので、平成に入る頃まで篠山町役場として使用されていたという。現在は観光案内所やレストラン、売店等が入った観光施設として利用されています。
更に進んでいくと二階町の商店街が見えてきました。観光客向けの店が一段と増え、観光地らしい雰囲気に。
丹波といえば栗……という事で栗ソフトクリームなんかも。
栗そのものを売ってる店も多く、ほんのり甘い香りが漂っていました。
二階町付近の街並みの様子。本町、二階町、呉服町と貫いているこの通り沿いが旧来からの篠山の中心市街地で、中央商店街とも呼ばれているらしいです。
二階町から東側、上二階町方面。途中の春日神社の参道と市立歴史美術館の入口。後者は元々は明治期に裁判所として建てられた建物で、昭和後期まで実際に使用されていた。
古くからの町らしく、街中には造り酒屋も存在します。鳳鳴酒造という酒蔵で、観光地にある蔵らしく入りやすい店構えでしたが、時間が無かったので今回は見送り……試飲もできるとの事だったので次回は是非とも。
城下町である篠山には献上菓子の文化が発達した為か、市内には多くの和菓子屋が立地しています。土産として丹波の栗か黒大豆に因んだ和菓子でも買って帰ろうと店舗を調べ、美術館横にある大福堂へ。
色々ありましたが、今回は大栗という大ぶりの栗饅頭を選びました。インパクトがあり、ひと目で丹波に行ってきたと伝わりそうなのも良い。
店先にはこんな感じで広げられていて目移りする。黒豆大福や牛蒡餅も気になった。
篠山も内陸部ながら鯖寿司が名物らしく、日本海側の舞鶴等の港町で取れた鯖を使用しれ、伝統的に作られてきたという……鯖寿司は好物ですが、前日若桜(若狭ではない)のものを食べたばかりなので今回は見送り。
篠山といえばボタン鍋を始めとした猪肉料理も有名で、篠山城方面の交差点近くのビルには鋭い眼光の猪が乗っかっていました。
お土産の和菓子は栗系を買ってしまったので、食べ歩きは黒豆系の黒豆ソフトを。頬張ると黒豆らしいねっとりした甘味が広がる。
今度は西側の本町方面へ……と歩き始めた所で時間切れ。振り返れば乗車予定のバスがすぐそこという所まで迫ってきており、渋々バス停まで引き返しました。
これをもって今回の篠山観光は終了。移動を控えた最終日なので大して回れない事は分かっていましたが、やはりどこか不完全燃焼気味。篠山城西側の武家屋敷群も見れてないですし、鳳鳴酒造にも入れていない。
といった具合にもう一度訪れる動機は十分ありそうなのでまたの機会に……次回はレンタサイクルでバスの時間に囚われる事無く回りたいですね。
【移動】東京までの帰路
篠山の観光を終えて篠山口駅へ戻ってきました。ここから夜、日付が変わる頃まで延々と移動になります。
篠山口駅は京阪神の通勤通学エリアの瀬戸際とも言える駅で、牧歌的な雰囲気のホームには大阪に直通する長い編成の電車が停車している。本数もこの駅を境に毎時2本……だったのが、このコロナ禍に減便されてしまったらしいです。
座席からぼんやり景色を眺めていたら尼崎駅に到着……一気に都市に来たという感じがする。ここで米原方面に向かう新快速に乗り換え。
少し時間があったので尼崎の駅前をうろうろ。JRの尼崎駅は本来の尼崎の市街地から距離があり、元々は神崎という駅名でした。
降り立った北口は如何にも再開発されたばかりというような整然とした街並み。後で調べてみましたが、元々キリンビールの工場が存在した場所のようです。
尼崎は江戸時代の人形浄瑠璃における第一人者である近松門左衛門が晩年を過ごした地らしく、駅前のペデストリアンデッキにはその代表作である『冥途の飛脚』のヒロイン、梅川の文学人形を象ったシンボルが設置されている。
次の乗換駅である米原まで少し眺めの乗車時間。篠山で花見弁当的に売っていた太巻きと炊き込みご飯のおにぎりを食す。
尼崎から乗り込んだ時点ではそうでもなかったのですが、大阪、京都と辿るにつれて青春18切符利用と思しき同士の姿が目立ち始める……この日は期間最終日であり日曜日でもあったので、編成の短い区間の混雑は中々のものでした。
米原から大垣行きに乗り込みます。一時期は2両しか無く、混雑が酷くて新幹線でワープする人も多かった区間ですが、ここ最近は編成も長いので余裕がある。
往路以来一週間ぶりとなる車窓越しの伊吹山。雪は殆ど残っていない様子でした。
暫くは順調に進んでいたものの、信号トラブルで大垣駅一つ手前の垂井駅で10分程足止め。名古屋以降は空いてる中央本線経由で優雅に帰るのが個人的に定番だったので、その時間に合わせて移動していたのですが……電車の遅れで乗り継ぎが難しくなり、往路と同じく東海道本線を辿って帰る事に。
以降は大垣、豊橋と乗り継いでいくものの、豊橋で夕食用の弁当を買ったりしている間に席が埋まり、次に乗り継ぐ浜松まで立ち乗りとなりました。
静岡県内はロングシートで有名なので熱海まで食事できないだろうなと腹を括っていたのですが、浜松で乗り継いだ先の電車は珍しくクロス。静岡過ぎる頃には帰宅ラッシュも落ち着いてきたのか、車内の混雑もお酒を楽しめる程度には解消されました。
流れる車窓を眺めながら日本酒の飲み比べ。2日目の大江山登山の後に加悦谷で調達した与謝娘、6日目の氷ノ山登山の後に若桜の街で調達した辨天娘を交互に頂く。
豊橋駅で購入した弁当も併せて頂きます。豊橋の駅弁というと稲荷寿司が定番ですが、この日は休日だったからか少し変わった弁当を見つけたのでこちらを選択。専ら飯田線で不定期で運行されている秘境駅号という列車で売られている弁当らしく、山間深い所を走る飯田線のイメージ通り山の幸を使った品々が豊富に盛り込まれている。
こういう様々な種類のおかずが少量ずつ詰め込まれた松花堂弁当系の駅弁はお酒のつまみとしては最適。
熱海辺りまで押し合い圧し合いの混雑が続くだろうと思っていましたが、予想外に快適な旅路に。
熱海で乗り換えの際、乗車したクロスシートの車両を撮影。元は中央本線の名古屋口で走っていた車両らしいです。
熱海まで来ると殆ど帰ってきたようなもの。乗り換え先の列車も15両と倍以上に長く、余裕を持って座れる。
登山後の空腹が継続していたので、駅ビル内の成城石井で押し寿司を購入。閉店間際だったようで3割引になってました。
日本酒ばかり飲んでいて飽きたのでビールも購入。ビールと押し寿司という組み合わせも少々ナンセンスな気がしますが、あまり拘らず頂く。
長旅を終え東京駅に到着。線路一本挟んだ先のホームには夜行寝台列車であるサンライズ出雲が発車待ちをしていました。乗り込んだら次の日の朝には西日本に戻ってるんだろうなとか、意味もない事を考えつつ眺めていた。
この東京駅の到着をもって今回の旅は終わりとなります。登山をメインとしつつ内訳は半分くらい旅行のようなものでしたが、登山に関しても前半に登った大江山、後半に登った氷ノ山と、概ね好天に恵まれ展望を楽しむ事ができたので満足……やはり全然知らない山域というのは登る山、見える山、景色全てに新鮮味があって楽しいですね。西日本には未踏の山が特に多いので、また他の山がシーズンオフになる時期にでも出向きたいです。
さて、この記事の作成時点で2022年も残り半分……チャンスさえ巡ってくれば年内に何度か行ければ良いなと思ってますが、実際に行けるかどうかは天気次第。梅雨も早く明けたり明けなかったりで中々読めず予報に右往左往させられる毎日ですが、隙を見つけてどこかしら出かけたい所。
この記事を執筆していた最中の2022年7月8日、安倍晋三元首相が参議院選挙の応援演説中に凶弾に倒れてこの世を去りました。ご冥福を祈ると共に、日本という国が理不尽な暴力に支配されるような事は無く、心の底から登山や旅行を楽しめる平和な国であり続ける事を願います。