山とか酒とか

登山やお酒を始めとした趣味全般を雑多に、また個人的に有用だと思った情報を紹介しています。

山とか酒とか

北近畿登山旅行3日目 若狭から西近江路の観光

三日目は前後を登山の日程に挟まれた観光主体の谷間のような一日で、宿場町の見物や神社仏閣巡りがメインとなります。

前日の大江山連峰の登山を終えた後に移動した西舞鶴からは小浜線に乗り、若狭湾に沿って小浜方面へ。途中の上中からバスに乗り換えた先、若狭街道鯖街道の宿場町である熊川宿にて重伝建地区の指定も受けている街並みを見物。

熊川宿からは琵琶湖の沿岸へ移動し、かつて竹生島の玄関口として賑わった近江今津の街を少しだけ散策。その後は湖西線西近江路を南下、滋賀県の県庁所在地である大津近江神宮三井寺と幾つかの寺社を回った所で時間切れ。

後半は移動尽くしで、翌日から始まる氷ノ山方面の登山に備えて大津から姫路、和田山経由で登山のスタート地点となる八鹿までその日の内に向かいました。

2日目 大江山連峰縦走」の続きの記事となります。

inuyamashi.hateblo.jp

他の日程を見たい方は以下の記事よりリンクを辿って下さい。

【2022年4月】北近畿登山旅行 - 山とか酒とか

目次

【移動】西舞鶴から小浜線で上中、熊川宿

この日は西舞鶴、田辺城の夜桜からスタートです。小浜線の始発に合わせて出発したのですが、まだまだ夜の延長線とも言える時間帯のようで辺りは暗闇に包まれていました。

田辺城は戦国時代、織田家の配下である細川藤孝(後の幽斎)による築城で、関ヶ原の戦いの前哨となる籠城戦、田辺城の戦いの舞台ともなった場所でもあります。江戸以降の幕藩体制に入ってからは宮津藩、後に分割された田辺藩を治める京極氏の居城となり、京極氏の豊岡への転封後は牧野氏が治め、その体制が明治維新廃藩置県まで続きました。

田辺城の行灯と桜。田辺城の本丸の跡地は舞鶴公園として整備されており、当時の石垣が残る他、戦前に復興された二層櫓が彰古館、平成に復興された城門の二階部分が田辺城資料館として公開されています。

敷地内には藩政時代に整備された心種園という庭園もあり、その名は歌人としても知られた細川幽斎田辺城の戦いにて籠城していた際、講話を働きかけてきた自身の歌道においての弟子でもある八条宮智仁親王に宛てた「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を 残す言の葉」という歌に由来します。

線路沿いの道を進み西舞鶴駅の構内が見えてきた所。この歩道の敷地はかつて舞鶴港(昭和41年までは舞鶴)に伸びていた支線の跡地で、駅の北の国道27号線にぶつかる辺りまでの区間が遊歩道として整備されています。

西舞鶴駅の改札へ。前日夜の時点では駅員の姿があったのですが、この早朝の時間帯は窓口にカーテンが下ろされていて無人駅同然の状態でした。

ホームに降りると乗車予定の小浜線の電車が既に入線していました。

西舞鶴駅は元々機関区が置かれていたので構内は広く、幾つかある留置線には特急車両が停まっているのが見える。舞鶴線の終点は一駅隣りの東舞鶴駅で特急もそちらまでの運行ですが、最終列車の到着後は線路のキャパがあるこちらに回送して夜間滞泊させるようです。

東舞鶴駅を運行上の起点とする小浜線の方も、そうした関係で始発と最終の一往復のみこの駅まで乗り入れています。

西舞鶴駅の発車直後は自分以外の誰一人と乗ってない貸切状態でしたが、福井県内に入ると1人、2人と増えていく。若狭において敦賀に次ぐ規模の都市である小浜駅に到着すると流石に多少の乗り降りがありましたが、それでも混雑には程遠い状態でした。

小浜は国宝指定の三重塔が残る明通寺を始めとした神社仏閣、重伝建に指定されている小浜西組の古い街並みと見所が豊富で、海のある奈良なんて言われている観光都市でもあります。

自分としても何かと訪れる機会の多い町だったりしますが、普段であれば中心街近くにある朽木屋という焼き鯖で有名な店に立ち寄り、そこでもう一つの名物であるへしこを手土産に買うのが個人的なセオリー……なんですが、朝6時という早朝に開いている訳がないので今回は立ち寄らず。

その小浜の少し先の上中駅で下車し、敦賀に向けて走り去っていく電車を見送る。

上中駅の外観。新し目の橋上駅舎ですがデザインは北口と南口で殆ど同様。かつての駅裏に当たる北口の方には立派な桜の木がある。

元々の駅舎が存在した南口から上中の町を少しだけ散策。内陸から琵琶湖や京都方面に続く若狭街道と接続する昔からの交通の要衝だったのでしょう。駅前にはかつての駅前旅館らしき建物も残っています。

上中駅周辺は現在は若狭町という自治体に属していますが、平成の大合併以前は上中町という独自の自治体でした。駅前には当時の町の中心らしく学校や庁舎等の公共施設が多く立地していますが、前身の上中町自体も昭和の大合併の際に幾つかの小さな村が合併して作られた町なので、中心市街地の規模はそこまで大きくありません。

ちなみに昭和の大合併以前は三宅村で、駅名も村の名から三宅と称していました。

上中駅から若干南側を通るの若狭街道沿いが古くからの町で、集落としては井ノ口という名称。街道沿いの上中中学校に隣接した所には神社の鳥居が立っており、山の中腹にある熊野神社まで参道が伸びている。

乗車予定のバスの時刻が迫ってきたので上中駅へ戻る。暫くして西日本JRバス若江線のバスが駅の入口に横付けする形で滑り込んできました。

若江線は名前の通り旧若狭国福井県)と旧近江国滋賀県)を結ぶ路線で、若狭のほぼ中央に位置する小浜と、琵琶湖湖西の中心都市である近江今津若狭街道経由で繋いでいます。

この路線は元々は鉄道としての営業を目指しており、国鉄民営化以前は将来的な開通を見据えて国鉄バスによって運行されていました。しかし結局現在に至るまで鉄道が開通する事はなく、国鉄バスを引き継いだ西日本JRバスによって毎時1本程度の頻度で路線バスが運行されているのみです。

しかし公共交通の利用に限定した場合においては、小浜を含めた若狭中部と京阪神方面を結ぶ最短経路で、広域輸送を担うそれなりに重要な路線だったりします。バスの時刻もそれを意識してか、近江今津駅を発着する新快速の時刻に合わせたダイヤが組まれています。

熊川宿散歩 鯖街道の宿場町

上中駅から若江線のバスに乗って10分程度進んだ先の新道口のバス停にて下車しました。一見すると周囲に何もなさそうなバス停ですが。

バス停から少し県境方面に進んだ所に若狭街道の宿場町である熊川宿の西側の入口があります。熊川宿の街並みは重要保存伝統的建造物群保存地区にも指定されており、江戸時代から明治大正頃にかけて建てられた古い町屋が現在でも多く残る。

宿場は現在の国道に沿って約1km程に渡って続いており、西側の入口から入った所は下ノ町、そこから順に中ノ町上ノ町という地区で構成されています。こちらは下ノ町で、トタンで覆われた茅葺き建物が入口近くに残る。

下ノ町の街並みの様子。過度に観光開発されていない、落ち着いた雰囲気です。

宿場町らしく、二階部分を大きく持った旅籠特有の建物が多く立ち並ぶ。重伝建に指定されているからか保存活動も盛んに行われているようで、建物は一軒一軒綺麗に整備されています。路面も最近になって土色のものに敷き替えられたという。

とある旅籠建築の一軒。一つ前の写真もそうですが、ベンガラで彩られた建物が下ノ町付近には特に多い。

ベンガラ塗りの建物と街道の片側を流れる用水路。

下ノ町中ノ町に境目には『まがり』と呼ばれる枡形が設けられており、付近には観光案内板が立っていました。

熊川宿若狭国近江国を結ぶ若狭街道上の要害の地となる場に位置しており、室町時代足利将軍家御家人であった沼田氏によって現在の宿場町の南側に熊川城が築かれ、城下町が作られたのが町(集落)としての発祥とされています。その後の安土桃山時代には当時若狭国を領有していた豊臣政権下の五奉行の一人である浅野長政が改めて宿場町として整備を行い、これが現在の熊川宿の原型となりました。

若狭街道は古くから御食国(古代、皇族や朝廷に食材を納めた国)として知られた若狭国で産出された塩や海産物の輸送が行われていた重要な交通路でしたが、江戸時代に入ると小浜の港を介して日本海側の他の都市から集められた物資が上方に向けて運ばれる一大輸送路となり、熊川宿はその中継地として発展。特にを始めとする海産物の輸送が多かった事が、この辺り一帯の道が『鯖街道』とも呼ばれている所以でもあります。(鯖街道という名称そのものは後年になってから付けられたとされている)

枡形から中ノ町に向けて進みます。地理的には熊川宿の中央に位置しており、町奉行所や御蔵、御茶屋等が置かれる宿場の中核とされたエリア。道幅も前後の町と比べると広々としている気がする。

街道の片側に流れている水路ですが、水量が豊富なのか激しい勢いで流れているのが印象的でした。街を歩いていると常に水の流れる音が聞こえてくる程です。

この水路は豊臣時代に宿場として整備された際に用水路として築かれたもので、現在でも野菜を洗ったり等とした生活用水として住民に利用されているようです。

緩やかなカーブに立ち並ぶ町屋。あまり統一感が無いと思えるのは、それぞれ建てられた年代が違う為でしょうか。

白波を立てて流れる水路越しの街並み。

かつての小浜藩の御蔵屋敷跡に建てられた松木神社の参道。中ノ町には神社仏閣が集中的に置かれており、神社はいずれも山の方に向かって参道が続いています。

日中であれば観光客の姿もありそうですが、朝早い時間帯という事で街全体がひっそりと静まり返っている。観光客向けの店も幾つかありますが、開いている店は一軒もない。

白石神社中ノ町の街並み。こちらの神社は室町期に築城された熊川城の跡地に鎮座しています。

水路と街並み。鯖街道という事で、鯖寿司を売っているお店もあります。

小道を入ったところにある宿場館。かつての村役場の建物を利用した資料館ですが、こちらも開いておらず。

酒林を提げた酒屋。昔は造り酒屋だったのかのような雰囲気の建物。

橋を渡った先から中ノ町方面を振り返る。以降は上ノ町を歩いていきます。

上ノ町の街並み。下ノ町と同様、トタンで覆われた茅葺屋根の民家が。

上ノ町の街並み。水路は橋を渡る手前で一旦途切れましたが、再び姿を現しました。

熊川宿の東側の入口に当たる付近。写真の左側の建物が熊川番所で、手形の確認や宿場を出入りする荷物に対する課税が行われていた施設でした。建物は番所として利用していた当時のものが残されています。

更に進むと道の駅の敷地に入り、一帯は公園として整備されています。

道の駅の施設に続く道とその脇で咲いていた花。

道の駅には食事処も併設されていました。棒寿司に焼き鯖寿司と中々に唆られるメニューでしたが、やはり開いておらず。

道の駅若狭熊川宿の全景。近江と若狭を結ぶ道という重要性は若狭街道と呼ばれていた時代から変わらず大きいようで、並行する国道303号線は大型車が絶え間なく行き交う。

最寄りのバス停『道の駅若狭熊川宿』に移動して若江線のバス待ち。6年前に設置された新しいバス停らしいです。

予定のバスに乗車。上中駅から乗車した際は自分一人しか乗車していませんでしたが、一本遅いこちらの便は意外にも混雑。特に遠方への利用が多い路線のようで、スーツケースを携えた方の姿が目立っていました。

近江今津散歩 九里半街道と琵琶湖とヴォーリズ建築

乗り込んだ若江線のバスは近江今津駅行き……なんですが、今回は一つ手前の今津西町のバス停で下車しました。バス停には農協の施設が隣接していますが、この敷地は元々は大津と近江今津を結んでいた江若鉄道の旧近江今津駅湖西線のものとは位置が異なる)が設置されていた場所だったりします。2019年まで当時の駅舎も残されていたらしいのですが、残念ながら老朽化で解体されてしまったようです。

狭義の若狭街道の経路は今津方面には向かわず、途中の保坂から朽木谷に入り京都の大原方面に抜けていたのですが、若江線は保坂から九里半街道という経路を辿って琵琶湖沿岸のこの今津の地を結んでいます。

今津の街は九里半街道以外にも北国街道西近江路)が通過しており、その接続点としての役割を果たす今津宿という名の宿場町が置かれていました。また、熊川宿方面から続いてきた陸上交通と大津方面に続く湖上交通を接続する中継地でもあり、琵琶湖の沿岸でも大津に次ぐ規模の港町として栄えていました。

古くからの街並みはかつて宿場が置かれていた旧街道に沿いに形成されており、重伝建の熊川宿のように密集してはないにせよ、街中には江戸から明治頃にかけて建てられた古い町屋が点在しています。

琵琶湖の名産と言えば川魚。小魚の佃煮や鰻の蒲焼、鮒寿司といった名物が古くから存在します。近江今津の街中にもそれらを扱う老舗の魚屋が幾つかあり、今回はその中の一つである魚清西店へ。

店内には様々な佃煮が並べられており、どれもこれも手持ちのお酒に合いそうで目移り……中でも鰻の蒲焼が特に唆られましたが流石に予算オーバー。翌日から登山で担いでいく事になるのを考え、あまり嵩張らない佃煮2種(氷魚、しじみ)を購入しました。帰り道だったらお土産に鮒寿司でも買いたかったんですが。

この今津の街にも酒蔵が存在し、琵琶の長寿の銘柄を醸す池本酒造が旧街道沿いに立地しています。店先を通り掛かったので入るべきか悩んだものの、手持ちのお酒は4合瓶と500ml瓶が殆ど丸々1本ずつで、翌日からの登山は前夜泊となるこの日を含めても3泊4日。1泊あたり2合以上という計算なので量的には十分だと感じ、残念ながら立ち寄りませんでした……しかし結局、後程巡った大津の酒蔵で2合瓶を買い足してしまう事になる。

旧街道である西近江路は東側、琵琶湖に向かって続いており、湖西線の高架を潜る手前までは辻川通りの愛称があり、一帯は商店街となっています。幾つかのお店の中には、先程入った魚屋と同様に鰻や川魚の佃煮を取り扱う店も。

途中で湖西線の線路を潜ります。高架線の割には低い所を走っており、家の二階部分に掛かってしまう程度の高さ。その湖西線の高架を潜った先にはレトロな雰囲気のベーカリーが営業していました。店名はブール今津店とあり、店先から小麦の甘い香りが……時間的に少し早いですが昼食の調達としました。

結構沢山買い込んでしまった。惣菜パン数種類が入ったお買い得セットと、店一番の人気商品と謳っていたいちごのメロンパンを購入。どれも美味しく頂けた。

高架を過ぎた先には旧今津郵便局の建物が保存されている。昭和11年の建築で、昭和53年まで郵便局の局舎として実際に使用されていたものとの事。

建築は東京御茶ノ水山の上ホテルや、かつての大丸心斎橋店本館等、日本国内において数多くの西洋建築を手掛けた米国人建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズによるものとされています。

半円形のアーチを持ちつつも瓦屋根で和洋折衷の趣きがある旧今津郵便局。この通り沿いにはヴォーリズが手掛けた建築物が複数残っている事からヴォーリズ通りとの愛称があります。

左は同じヴォーリズ建築の日本キリスト教団今津教会会堂。現在は併設されている幼稚園の施設として使用されているようで、その時間帯の立ち入りはできない旨が入口に掲げられていました。

ヴォーリズ通りと呼ばれているくらいなので西洋風の建物ばかりが立ち並んでいる思いきや、中には宿場町の名残を感じさせる町屋も幾つか存在しています。

左の写真の建物は今津ヴォーリズ記念館。元々は百三十三銀行今津支店として使用されていた建物でした……琵琶湖に向かって続いていた街道は湖岸近くで方向転換し、以降は湖畔沿いに南へ進んでいく。

街道が方向を変える地点は三叉路となっており、その歩道上には観光案内板が設けられていました。

案内板には熊川宿、小浜方面に伸びる九里半街道の起点と記載され、その解説があります。実際に九里半街道が西近江路から分岐している地点はもう少し西に進んだ先ですが、若狭を始めとした日本海側から輸送されてきた荷物の多くは大津方面に向かう船に載せ替えるべくこの場所まで運ばれていたので、実質的に街道の起点とされていたのでしょう。(実際、九里半街道の名称は今津港から小浜港までの距離が九里半という事に由来しています)

ちなみに今津という地名ですが、中世頃に新しく港が造られた事から由来するようです。対して、近江今津やや南側にある木津は『こうづ』と読み、従来の港があった事を示す古津が転化したものとされています。

湖岸沿いの道を進んでいきます。雪国らしく路面には融雪パイプが整備されている。

茶屋の前に大きな茶壺が飾られていました。昔はこうした壺を用いて茶葉を運搬していたという。

古い町並みと言えるような統一感はありませんが、中には白漆喰に虫食い窓という商家らしい町屋も残っています。

元旅籠であり、現在も旅館として営業している丁子屋を過ぎた所に竹生島方面のフェリー乗り場があります。竹生島には行った事がないのでこの機会に……と思いましたが、どうせフェリーに乗るなら竹生島から長浜方面のフェリーに乗り継いで琵琶湖の横断をしたいので、もう少し時間に余裕がある時にしようと今回は見送り。

竹生島に建つ宝厳寺西国三十三所の三十番でもあり、巡礼が一般庶民の間にも広まった江戸中期以降、この今津の町は参詣の玄関口として大いに賑わったという。

フェリー乗り場の横から琵琶湖の穏やかな湖面を臨む。若干霞んでいますが、伊吹山鈴鹿山脈といった稜線が遠くに見えています。

フェリー乗り場から湖西線近江今津駅までは目と鼻の先という距離。歩き始めて程無くして到着。

近江今津駅の駅舎。他の湖西線の駅と同様に無機質な雰囲気の高架駅でした……湖西線京阪神と北陸を結ぶ大動脈とも言える路線で、高架の上には長大なコンテナ列車が停車しているのが見える。

近江今津駅の構内の様子。元々は直流と交流の境界が置かれていた駅という事で、ホームは4線、側線が上下1本ずつと余裕を持った構造。現在でも湖西線の線内においては運行の拠点となる駅で、一部の特急列車が停車する他、この駅が始発や終着となる列車が設けられていたり列車の増解結が行われたりします。

大津その1 近江大津宮近江神宮

湖西線で南下して大津京駅まで移動しました。2008年に改称されるまでは西大津という駅名で、湖西線における県都大津の西の玄関口という位置付けの駅です。今回はこの駅を起点に大津の神社仏閣巡りを開始します。

大津京駅のすぐ側を京阪電車石山坂本線が通過しています……当初はここから三井寺方面に向かうつもりでしたが、地図を見てみると競技かるたの聖地として有名な近江神宮が近くにあるようなので寄っていく事に。

近江神宮を目指して歩いていく。元々は古い道のようで、道幅が次第に狭くなってきた。

錦織の町中に突如として現れた近江大津宮錦織遺跡。一般的には大化の改新を起こした中大兄皇子の名で知られる天智天皇の時代、飛鳥から遷都し近江朝廷が開かれた近江大津宮の遺構の一部で、都はこの錦織を中心に整備されていたといいます……しかし、遷都から僅か5年後の壬申の乱によって近江朝廷が滅ぼされて都が再び飛鳥に移されてしまった事で、都としての大津宮は至極短命に終わってしまいました。

大津宮は先程の大津京の駅名の由来とされています。しかし大津京という名称そのものは歴史上存在せず(古文書では大津宮と記載されている)、学術的根拠が一切ない造語という厳しい批判も多く、旧称の西大津から改称される際には一悶着あったという話。

遺跡から少し先に進むと近江神宮の敷地と思しき森が見えてきました。

奥に見える一ノ鳥居から続く近江神宮の参道。桃色の濃い桜は陽光桜という品種らしいです。

緑の中の桜がアクセントとなって良い。

階段を上がった所に建つ二ノ鳥居

二ノ鳥居を潜った先には手水舎があり、更に一段上がった先に楼門と続いています。

朱色が鮮やかな楼門近江神宮と言われたら、この楼門を思い浮かべる人が多いでしょう。

楼門を潜った先には拝殿(外拝殿)が山の際にへばりつくように広がっています。

近江神宮昭和15年に造営された比較的新しい神社で、近江大津宮を開いた天智天皇主祭神として祀られています。

天智天皇は和歌の名人としても知られており、特に競技かるたに用いられる小倉百人一首の第一句目である『秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ』の歌を詠んだ事から、天智天皇を祀るこの神社は競技かるたの聖地ともされており、毎年1月にはこの地で全国大会が行われるという……個人的には競技かるたを題材とした人気作品、ちはやふるの舞台となった印象が強く、訪れるファンも多いのか社務所ではそうした関係のグッズも幾つか扱っていました。

外拝殿前の桜と狛犬

外拝殿の内部から境内と楼門を見下ろした所。整然とした配置の神社です。

外拝殿から内拝殿を臨む。背後に見える檜皮葺の建物が本殿です。

隣接して鎮座する栖松遙拜殿。かつて東京高輪の高松宮家の宮廷内に置かれていた霊屋で、同家の廃絶後にこの地に移されたという。

今回も御朱印帳持参で来たので頂きました。これまで使用していた江島神社のものが一杯になってしまったので2冊目スタート。2019年に大峯奥駈道を歩いた際熊野本宮大社にて購入したもので、3年経過してようやくの使用開始となりました……埋まるのは何年後になるかな。

帰り際、参道の桜が美しかったので再び撮影。

木漏れ日に色鮮やかな桃色が映える。

参道の桜シリーズ。

大津その2 寂れた国宝建築物、新羅善神堂

近江神宮を巡った後は大津京方面へ歩いてきた道を戻り、そこから三井寺方面へ。皇子が山公園付近では京都に向かっていく湖西線の高架を潜り、更に南下していきます。

途中で三井寺北院、国宝にも指定されている新羅善神堂に立ち寄るべく西側に折れます。続いている道は普通の住宅街のようで、一見すると国宝建築物に続く道とは思えないのですが。

住宅街の脇から伸びる隘路を進んでいきます。手前の所に案内板は設置してありますが、知らなければ中々踏み込めないような雰囲気の道。

鬱蒼とした森の中を進んでいくと新羅善神堂が見えてきました……が、三井寺の中心となる中院から距離があるという事で、周囲は国宝建築物とは思えない程に閑散としている。観光客の姿も誰一人と無い。

三井寺の境内は広く北院、中院、南院とそれぞれ分かれていますが、その内の北院伽藍の中心をなす建築物が新羅善神堂です。三井寺の鎮守である新羅明神を祀っており、現在の建物は南北朝時代足利尊氏の寄進を受けたもの。三井寺安土桃山時代豊臣秀吉に闕所(廃絶)が命じられた事で境内の堂塔が軒並み破却となってしまったので、同寺の伽藍としては古い部類です。

建物は堂という名前が付いているものの、建物は流造の屋根を持った神社建築らしい神社建築で、実際に神社として国宝に登録されている。明治の神仏分離以前は新羅社や新羅明神等と呼ばれていました。

内部には平安時代作の木像である新羅明神像が保管されていますが、秘仏とされており観覧する事は叶いません。というか塀から中は一般公開されておらず入れない。

解説板も簡素ながら一応立っていました。三井寺も含めて源氏と縁があり、その後継となる足利将軍家とも関係が深かったという。

静寂な森の中に佇む新羅善神堂。手前の広場にはかつて拝殿が建っていたらしいですが、昭和初期頃に台風で倒壊して以降は再建される事はなくそのままという。

本殿は背の高い門塀に覆われており、内部の社殿は隙間から僅かに覗ける程度でした。

次は三井寺中院方面へ向かいます。新羅善神堂の周辺一帯は土台として設けられた石垣も崩れており、殆ど管理されていない様子でした。良く言えば自然体で神秘的、悪く言えば野ざらしで廃墟のよう。もう少し保全した方が良いのでは?

一旦麓に降ろうかと悩みましたが、案内板に三井寺方面と書かれていたので従って進んでいくと山道に入りました。山の中腹に通された道のようです。

三井寺中院北院を結ぶ道なのでそれなりに整備された道を想像していましたが、意外にワイルドな山道が続いていました。

途中、先程の新羅善神堂にて元服の儀式を執り行い後三年の役で活躍した新羅三郎源義光)の墓所への分岐があります。

意外に起伏が富んでいる山道。古そうな石段や苔生した地蔵を見るに、古くから歩かれている道なんでしょうか。

樹間から琵琶湖が見えました。湖面の奥には野洲にある三上山近江富士)が聳える。

いつの間にか東海自然歩道に迷い込んでしまったのか案内板が立っていました。案内図を見た限り、三井寺から坂本の方まで山の中腹を進んでいくハイキングコースのようです。

東海自然歩道から降りてくると大津市歴史博物館の前に出てきました。大津の街となりを知っておくべき為にも中を覗いておきたかったのですが、近江神宮への往復で意外に時間が掛かってしまったので今回は断念……この日は急遽予定を組んだ一日だったという事もあり、足取りに何かと粗が目立つ。

大津その3 花盛りの三井寺

三井寺方面に向かっていくと次第に観光客の姿が増えてきました。その途中には円満院という門跡寺院があるので立ち寄ってみる事に。

三井寺の敷地に殆ど取り込まれるようにしてある円満院の境内。実際に三井寺に取り込まれていた時代もあったようですが、戦後に別個の寺院として独立。

もとは平安時代村上天皇の皇子である悟円法親王が創建した門跡寺院で、江戸前期に建築された円満院宸殿重要文化財の指定。他、境内には江戸時代の大津において縁起物や土産物として売られた民俗絵画である大津絵を扱った美術館が建っています。

こちらが重文指定の宸殿の入口。正面の大玄関は天皇行幸で訪れた場合に限り使用されるという。

隣接する三井寺まで移動しました。三井寺は入口の石碑にあるように正式名称は長等山園城寺で、7世紀に大友皇子の子である与多王が創建。その後は一旦廃れますが、平安時代に入って比叡山の僧である円珍によって延暦寺の別院として再興しました。

円珍の没後は一転して延暦寺との対立が激しくなり、焼き討ちを始めとした抗争が度々発生。そうした関係性もあってか、戦国時代に行われた織田信長による比叡山焼き討ちに際してはこの園城寺の境内に本陣が置かれたという。

園城寺は信長の没後、次の天下人となった豊臣秀吉とも暫くは良好な関係を維持していましたが、ある時に突然闕所(廃絶)とされ、先程行った新羅善神堂を始めとした幾つかの子院を除く境内の殆どの堂塔を破却。寺領も没収され一時は存続の危機に瀕していましたが、その後秀吉は自身の死の直前になって再興の許可を与え、秀吉の死後はその意思を汲んだ高台院らが主導となって境内の堂塔の再建を進めた。

現存する三井寺の伽藍は移築されたものを除き、その頃に再建された1600年前後、慶長年間の建築物が大半を占めています。

三井寺の入口に建つ大門、仁王門とも呼ばれるらしいです。室町時代の建築で重要文化財指定。元は同じ近江国、湖南三山の一つとして知られる常楽寺の仁王門でしたが、秀吉によって伏見城に移築、その後家康によって現在の場所に再び移築されました。

入場ゲートを過ぎてすぐ右手にある釈迦堂、食堂とも呼ばれています。室町時代の建築で、慶長期の再興時に京都御所清涼殿を下賜され移築したものとされています。

三井寺の中心となる金堂へと向かいます。時代によっては四大寺の一つにも数えられていた大寺院という事もあり、敷地は非常に広い。

檜皮葺の大きな屋根が美しい園城寺金堂。慶長の復興時の建築で、秀吉の没後に正室である高台院によって寄進されたもの。

廊下から花見客で賑わう境内を臨む。

堂内で御朱印を頂きました。お寺の方の御朱印帳も埋まってしまったので新調して1ページ目、こちらの御朱印帳は年始に高尾山薬王院にて購入したものです。

金堂では金堂に祀られている本尊である弥勒弥勒菩薩)と記されたものが頂けました。三井寺の朱印は他にも釈迦堂釈迦如来観音堂であれば大悲殿といった風に幾つかの種類(本尊)が存在しますが、全ての種類を一箇所で貰う事はできず、それぞれの堂の内部の納経所で頂くという形になります。

金堂と桜の花。左に見える建物は閼伽井屋というお水取りが行われる施設で、内部で湧く三井の霊泉天智天皇天武天皇持統天皇の誕生の際の産湯(御産湯)にも使用され、この寺がその事に因んで御井の寺と呼ばれていた事が三井寺の名の由来とされています。

観光客で賑わう参道の様子。桜は一番の見頃とも言える時期。

一切経方面に続く石段と、その途中で池越しに金堂を眺める。

一段高い所にある一切経。仏教経典の総集を意味する一切経が収蔵されている経蔵で、内部には八角形の輪蔵が備えられている。建物は室町初期の建築で、元々は周防国山口の国清寺(現在の洞春寺)の経蔵を慶長の再興に際して移築したものとされています。

一切経から橋を渡った所には三重塔が見えます。

大師堂、潅頂堂、三重塔が立ち並ぶこの一角は唐院と呼ばれ、平安時代三井寺の再興を手掛けた円珍が、留学先の唐から持ち帰った経典や法具を収蔵した場所とされています。

大師堂(潅頂堂の背後に立地しており見えない)は円珍の廟所で、建物としては慶長の復興時の建築。潅頂堂(左の写真の堂)は密教を伝承する道場、背後に建つ大師堂の拝殿という役割も担っており、こちらも慶長年間の建築。三重塔(右の写真)は室町時代の建築で、大和国の比蘇寺(現在の世尊寺)の東塔が秀吉の手によって伏見城に移築された後、家康によって再び移築されたものとされています。

唐院に至る参道……何やら絵になる雰囲気。映画の撮影で使われた事もあるらしいです。

三井寺は桜の名所でもあるらしいですが、勧学院の塀の付近は特に桜の密度が一際高く、多くの人が足を止めていた。

勧学院横の桜。

勧学院の入口に回り込んでみましたが、こちらは一般公開されておらず覗き込めるのみ。先に見える勧学院客殿は要人を迎える為の客殿として建てられた施設で、現在の建物は慶長年間の復興時のもの。同じ三井寺にある光浄院客殿(こちらも非公開)と共に書院造の代表的遺構として国宝に指定されています。

参道を進んでいくと見えてくるお寺は微妙寺三井寺の境内に五別所と呼ばれる別院の一つで、元々は少し離れた長良公園付近に立地していましたが、1979年に三井寺の境内に移転。建物は江戸中後期頃の建築。

微妙寺から南院高台にある観音堂へ。山の中腹を巻くような道を暫く進んでいく。

観音堂手前の石段。金堂を中心とした中院からは若干距離がありますが、こちらの方も観光客の姿は多い。

高台の上に建つ三井寺観音堂西国三十三所の十四番としても知られるお寺です。元々は正法寺と呼ばれ位置も山上の方にありましたが、室町時代に現在地に移されました。現在の建物は江戸前期に焼失した後の再建。

境内からの展望です。少し上がった所に展望台があったのですが、時間が結構ギリギリな感じだったので立ち寄らず。

急な石段を下り、麓に広がる大津の市街地へと向かいます。

石段の途中には地蔵堂があり。そのまま道なりに下っていくと入場ゲートがあり三井寺の境外へと抜けます。

漠然と立てていた予定ではその後は付近の琵琶湖疏水、三尾神社と回るつもりでしたが、時間切れとなり以降はカット。長等神社から最短経路で大津駅を目指す事になりました。

大津その4 大津の鄙びたアーケード商店街

観音堂から下った所にある長等神社天智天皇近江大津宮に遷都した際に鎮守として建速須佐之男命を祀ったのが発祥で、後に円珍により三井寺の鎮守として山王権現が合祀され、延暦寺の鎮守であった日吉神社に対してこちらは新日吉社と称していたという。

そうした経緯もあり江戸時代頃は三井寺の一部とされていましたが、明治維新後の神仏分離により独立し別個の神社となりました。

長等神社、朱色の背の高い楼門は明治の建築。正面から伸びる道はそのまま西近江路まで続いています。

静かな長等神社の参道。途中には大津絵を扱う店もあったりする。

虫籠窓を持つ古い町屋の建物。

入口に長等商店街と掲げられたアーケード商店街。西近江路から東海道に合流する旧街道の一本北側の道で、今回はそちらから大津駅を目指して進んでいきます。

長等商店街の様子……県都大津中心市街地と言えるような場所にあるのに昼間から薄暗く、開いている店も疎ら。しかし中には近江今津で見掛けたような川魚の佃煮や鰻を扱う店も幾つか。

大津は古くから(特に平安京の外港として栄えた平安時代以降)琵琶湖の湖上交通における要衝として発展した町で、同じ琵琶湖湖岸の長浜海津塩津近江塩津)、今津近江今津)から畿内に運ばれる物資の中継地として繁栄しました。

安土桃山時代には沿岸の浜大津大津城が築かれ一時期は城下町となりましたが、関ヶ原の戦いにおいての戦地(大津城の戦い)となった事で戦後は荒廃著しく後に廃城。新たに東側の膳所膳所が築城され、城としての機能は完全にそちらに移されました。

江戸時代に入ると江戸から伸びる五街道が整備された事により東海道の宿場町としての役目を担うようになります。また、中世以前と同じく水運の要衝としての役割も持ち合わせていた事から、街は大津百町とも呼ばれる程に賑わいを見せており、東海道五十三次の中でも最大規模の宿場町とされていました(旅籠の数としては渡し場に近接していた宮宿や桑名宿の方が多かったとされる)。

しかし琵琶湖水運の拠点という地位に関しては、後に北国から上方や江戸までの輸送を船一本でこなせる北前船が定着した事によって重要性が大きく低下。その後も明治頃まで規模は縮小しつつも続けられていましたが、明治中期に鉄道網が整備された事で、古代から続いてきた大津の物流の中継地としての役割は完全に終えたのでした。

この商店街の通りは大津百町と呼ばれていた当時から中町通りという名とされていた道。かつては琵琶湖から近い順に浜通り、中町通り、京町通り(旧東海道)、百石町通りと平行に並んでおり、それぞれに問屋街が形成されていました。

アーケードの途中から分岐する本要寺の参道。

西端の方は寂れ気味だった長等商店街ですが、東に向かって進むにつれて次第に賑わいが感じられるように。こちらの方にも琵琶湖の川魚を取り扱う店がある他、昔ながらの街らしく呉服屋や金物屋といった店も残っている。

更に先に進むと菱屋町商店街と名前が変わっていました。途中、如何にも老舗という店構えの気になる漬物屋が……次の日から登山でなければ、お土産に幾つか見繕いたかった所ですが。

途中で併用軌道(所謂路面電車)の京阪京津線の線路を越えます。大津の市街地を貫くように通された京津線はこの付近のみ併用軌道となっていますが、短い路面電車タイプの車両ではなく4両編成の普通の電車(1両の長さは16.5mで、一般的な20mと比較すると若干短い)が路面上を走る、全国的にも珍しい区間として知られています。

2010年頃と少し昔のものになりますが、京津線の終点となる浜大津駅の付近から併用軌道区間を臨んだ際の写真。京津線の電車は琵琶湖沿岸の浜大津駅を出発すると路面電車として大津の市街地を縦断し逢坂関、大谷、追分旧東海道をなぞりながら山科で地下に潜り京都の市街を貫いて太秦まで至る……といった風に、中々にバラエティに富んだ路線です。

京津線の線路を越えた先は丸屋町商店街と再度名前が変わります。帯屋町の方はショッピングセンターもあったりして賑わっていましたが、より大津駅に近いこちらに移ると再び静かな雰囲気に。

なんだか良さそうな店構えの和菓子屋、光風堂菓舗。通り掛かった瞬間、何故か無性に甘味が欲しくなり店内に吸い込まれる。幟でパタパタしていたいちご大福と、それプラス幾つか調達して後の電車移動の際に頂くおやつとしました。

静かな雰囲気の丸屋町商店街

アーケードの切れ目が近付いてきた頃、思わぬ所で酒蔵を発見。その場でネットで調べてみると浅茅生の銘柄を醸す平井商店との事。当初の予定では大津の街は歩くつもりではなく予習もしていなかったので、この大津の街に造り酒屋が存在していた事すら把握していませんでした。

近江今津池本酒造の前を通った時と同様に入るべきか迷う訳ですが、予期せぬ発見というのは何かしらの縁があるのだろうという事で、中に入り2合瓶だけ購入。残念ながら試飲の対応はしていないとの事だったので、蔵の人と幾らか相談した上で1本に絞りました。

前日与謝で購入した2本がどちらも甘いので、やや辛め傾向の濃醇酒を……と希望しておすすめされたのが、今回購入した浅茅生特別純米吟吹雪です。店先の酒樽に乗せて記念撮影。

平井商店から少し進んだ所で、長等神社近くから延々続いていた全蓋式アーケードが途切れました。

途中の交差点を南に折れて大津駅を目指します。この通り沿いにもぽつぽつ古そうな建物が残る。

先程歩いてきた中町通りの一本南側の京町通り旧東海道)の様子。宿場町時代の遺構はあまり残っていないらしいですが、路面はそれっぽく石畳調になっている。出張民にとっての旅籠とも言える東横インが奥に見えるのは宿場の名残か。

大津駅は山の際とも言える場所にあるので坂を登り詰めていく形となる……駅に近付くにつれて次第に駅前商店街的な雰囲気の街に。

大津駅の駅前ロータリーの様子。周辺は県庁や裁判所が立ち並ぶ官庁街となっており、県庁所在地を代表する駅としては至極静かな雰囲気。

これにて本日の観光はひとまず終了。大津駅からは、翌日から始まる登山に備えて山陰本線八鹿駅まで移動……まずは東海道線の新快速に乗り込み一気に姫路駅まで向かいます。

【移動】姫路、和田山経由で八鹿

車窓から大阪駅……去年通った時も似たような写真撮った気がする。今回もスルーしてそのまま西へ。

大津の光風堂菓舗で調達した和菓子セット。内訳はいちご大福と三色団子と道明寺。いちご大福はあまおうが入っているとの事で、一般のものよりも一回り大きく食べごたえ抜群。他、関東に住んでいると中々食べる機会のない道明寺の桜餅、色鮮やかな三色団子……午後の優雅なひとときは車窓と共に通り過ぎていく。

姫路駅に到着。姫路といえば……という事で、一旦改札を抜けて姫路城に軽く挨拶。

姫路城の遠望。外国人観光客の姿が殆ど無いので、やはり普段より閑散としている印象。

夕食の弁当を調達した後に播但線に乗り込みますが、帰宅時間帯という事もあって結構な混雑。途中の香呂駅辺りまで立ち乗りでした。

播但線姫路駅から寺前駅までの区間は電化されていて電車での運行ですが、以降は和田山駅まで非電化で気動車での運行なので、乗り通す際は運行上の境界となるこの駅で乗り換えとなります。

写真は寺前駅の構内で、左の車両が姫路方面に向かう電車、右は和田山方面に向かう気動車

寺前駅で下車印を貰いに改札口へ寄ったらステッカーを頂きました。

播但線の車内で先程購入した浅茅生を口切り。味見してみた所、概ね自分のリクエスト通りの味わい。若干辛めで骨太な印象ですが、全体的に清涼感を覚える独特の風味。最後の切れ具合は上々といったお酒でした。

途中、天空の城で有名な竹田城最寄りの竹田駅にて列車の交換待ち。

竹田城はあまり知られていない頃に行った事があるのですが、行った直後くらいの時期、多くの媒体で挙って取り上げられた事で有名になり観光客が激増。その増え方があまりにも急激であった事で観光地としてのキャパシティを越えるオーバーツーリズム状態に陥ってしまい、石垣が崩れたり登山道の木が枯れたり観光客が転落したりといった弊害が次々と発生。

現在は増加しすぎた観光客を受け入れる為に徹底的に整備され、今では殆どの箇所がロープで囲われていて、進むべき順路も決められているとか……もう一度くらい登りたいなと思っているのですが、以前訪れた時の静かな荒城という雰囲気が好きだったので、その頃のイメージ壊したくないなと近くを通る度に二の足を踏んでいるのでした。

反対側からやってきたのは但馬海岸、浜坂や香住から播但線経由で大阪に向かう特急はまかぜでした。高速化されていない古いタイプの路線なのでポイントのカーブがきつく、通過する特急も減速してゆっくり走り抜けていく。

播但線の終着である和田山駅に到着。この駅で山陰本線に乗り換えとなります。時刻は既に18時を回り、辺りは次第に薄暗くなりつつある。

播但線が分岐する山陰本線の主要駅という事もあり、この線区としては比較的大きめの橋上駅舎を持つ。

駅前に広がる和田山の街並み。平成の大合併朝来市となる以前は和田山町という名の自治体で、駅周辺はその中心市街地とされていました。

和田山は元々は京から山陰地方へ伸びる山陰道の宿場町で、姫路方面に伸びる播州街道が分岐する交通の要衝でした。また、下流豊岡、城崎方面に続く円山川では古くから舟運が行われ、この場所はその川湊が置かれた地でもありました。

明治以降に入ると山陰本線播但線とかつての街道と殆ど同じ経路の鉄道が開通。両路線の乗換駅となり、機関区の支部が置かれ鉄道の街として発展しましたが、日本各地の地方都市の中心市街地がそうであるように、車社会化の進行に伴い中心街は空洞化著しい。

駅前からは和田山駅前センター街と銘打たれた商店街が広がっています。若干寂れつつも比較的近代的なビルが立ち並ぶ碁盤の目状のこの一角は元々は紡績工場の敷地で、昭和後期頃にその跡地を再開発して作られました。ちなみに先程の橋上駅舎もその頃の建築なので、セットで整備されたのでしょう。

和田山駅にはこの沿線には珍しく(主要駅である福知山駅豊岡駅には現存しない)駅弁が存在します。とは言え駅売りはしておらず、駅前にある福廼家総合食品の調製所まで赴いて購入する形となるのですが……営業は17時までとの事で既にシャッターが降りていました。

和田山駅の構内です。かつては豊岡機関区和田山支区が置かれて賑わっていたらしいですが、なんだか寂れた印象を受けます。現在でも特急が概ね毎時1本止まる主要駅には違いないんですが。

和田山駅から2駅先の八鹿駅で下車しました。養父市の中心となる八鹿の市街地に面した駅ですが、この時間帯は既に窓口のカーテンが閉じている。

八鹿駅の駅舎です。昭和9年建築の古い木造駅舎ですが、三角形の破風に星型の飾り窓と所々で洋風の意匠が凝らされている洒落たものでした。

この駅が翌日から3日間掛けて歩く氷ノ山方面の登山のスタート地点となります……この日に関してもあと少しだけ歩きますが、以降は次回の記事に含める事にします。

次回記事『氷ノ山方面登山その1』に続く

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