月山から六十里越街道その3(細越峠→田麦俣→大日坊→松根→弘法の渡し→下桂バス停)
六十里越街道の長い道程を辿るのが今回のメインとなります。旧街道という事で殆ど麓に近いエリアの山歩きとなった為、展望の良い区間が多かった前日と比べると全体的に地味な印象は拭えませんが、道中には大日寺や注連寺といった出羽三山信仰の遺構が随所に残されていたりと歴史的、文化的な一面から楽しめた一日でした。
「月山から六十里越街道その2」の続きの記事となります。
他の日程を見たい方は以下の記事よりリンクを辿って下さい。コース全体の軌跡もこちらに掲載しています。
目次
今回歩いたルートのGPSログです。
細越峠→独鈷茶屋跡→弘法茶屋跡→田麦俣
[4:37]細越峠出発
パッキングを済ませ細越峠を出発します。この日は未明から土砂降り……という程ではないですが結構な勢いの雨でした。
予定では前日同様に3時半出発のつもりでしたが、暫く天気の様子を見ていてこの時刻の出発に。雨脚は弱まってきたものの遂には止んではくれなかったので、雨具にザックカバーという装備でのスタートとなりました。
街道という事もあって暗闇の中でも歩ける程には明確ですが、泥濘が凄まじくてそこまでスピード出せません……一度派手に滑って泥だらけに。
道中の案内板。写真では真っ暗闇で意味不明ですが、大掛かりな切通しとなった道が続いていました。
護身仏茶屋跡からその先の道の様子。旧街道という事でかつて茶屋が置かれていたとされる場所が多く、この先にも独鈷茶屋跡、弘法茶屋跡と比較的短い間隔で続く。先程の大規模な切通しもそうですが、以前は山形盆地と庄内平野を結ぶ主要街道であったので往来もそれだけ多かったのでしょう。
この頃になるとヘッドライトが不要になる程に辺りが明るくなってきました。雨もいつしか弱まっていて霧雨のような状態に。
[5:37-5:46]独鈷茶屋跡
スタートして1時間ジャストで独鈷茶屋跡に到着。標準コースタイムでは100分掛かる道だった割には近かった……後の区間もそうですが、六十里越街道は比較的コースタイムの設定が緩めのようです。
辺りは広場となっており、他の六十里越街道のチェックポイントと同様に丸太の椅子が置かれていました。休憩するには良さそうな場所ですが、雨が止んだという事で藪蚊がここぞとばかりに湧いて出てきており、気付けば雨具とレイングローブの間の手首の所に5匹くらい止まっていた……こんな所で呑気に休憩したり雨具を脱いだりしていたらボコボコにされてしまう。小休止に留めて再出発しました。
六十里越街道の案内看板。歩く人の絶対数は決して多くは無さそうですが、案内に関しては先に歩いた月山よりも充実している。
コンクリートの路面と変わります。途中で自動車専用道路である月山道路を越える箇所があり、ここはその防護壁の上のようでした。
スノーシェッドとなった所を上から越えていく。雰囲気としては山道でも旧街道でもなく、作業用の通路のようにも見える。
月山道路の様子。自動車専用道路なので歩行者は立入禁止で注意喚起の看板も置かれている……のですが、後々この道路を歩いて越える箇所があったりする。
道路を越えた後は先程までと同様、普通の山道となります。看板には塚なら、馬立と街道であった時代の地名が記されている。
[6:21-6:25]弘法茶屋跡
山道に復帰してから少し進んだ所で弘法茶屋跡に到着。こちらも広場となっていますが、独鈷茶屋跡と比べると狭いです。近くには弘法清水という水場があるらしいので、一泊するには良いポイントでしょう。
弘法茶屋跡から蟻腰坂という坂を下っていく。坂と名付けられていますが、道の斜度はこれまでと大して変わらない。
[6:34]蟻腰坂入口
蟻腰坂を下り終えると田麦俣の家並みが見えてきて、程なくして舗装路との合流します。ここから先、田麦俣の集落を越えるまでの暫くの間は舗装路歩きとなります。
田麦俣の集落を目指して舗装路上を歩いていく。距離はそう遠くはなく、先程の登山口から10分で到着する。
田麦俣→塞ノ神峠→大日坊
田麦俣の集落内に入ります。この集落は六十里越街道の宿場町で、庄内側において峠越えに挑む直前に息をつける最後の場所とされていました。
かつては出羽三山の参詣客も多かった事から人々の往来や物資の運搬も多く、集落内には人改め荷改めが行われる番所を始め、宿場としての施設が一通り置かれていたという……しかし現在ではその遺構と思われるものはあまり残っていませんでした。
田麦俣の集落内にはバス停も置かれています。鶴岡市営バスの路線が旧朝日村の中心地に位置する朝日庁舎前まで運行されており、そこから庄内交通の路線を乗り継いで鶴岡駅まで行けるようです……今回は六十六里越街道を基点まで歩き通す予定なのでスルー。
田麦俣の街並み。かつては宿場町らしく道沿いに旅籠が立ち並んでいたらしいですが、今では純然たる農村のような雰囲気。
[6:50-7:21]田麦俣多層民家
集落内の坂を下りきった所にある一際大きな茅葺屋根の古民家は旧遠藤家住宅と呼ばれ、田麦俣という集落におけるシンボル的な施設となっているようです。兜造りの多層民家と呼ばれる特異な形状の古民家ですが、こちらの建物は元々は通常の茅葺の様式であったものの、明治期に養蚕を行うようになって現在のような形に改造されたとの事。
こうした形状の民家は田麦俣では数多く見られたらしいですが、現在は二棟しか残っていません。しかし、かつてこの地に建っていた一つである『旧渋谷家住宅』が鶴岡の市街地にある致道博物館にて田麦俣多層民家として保存、展示されていており、こちらは国の重要文化財にも指定されているという。
二棟の家のもう一方の茅葺屋根の古民家。こちらの方は原型に近いらしく、県の有形文化財に指定されている。
古民家周辺の様子。通りに面した方の棟は民宿として利用されているようで、有料で内部の見学ができるらしいです……しかし9時からの営業という事で諦め。
古民家と田麦俣の集落の全景。平坦な土地は少なく、家並みが斜面に段々となって続いている。定住している人も多いようで、静かでありつつもどことなく生活感のある集落でした。
田麦俣の集落を抜けた所で田麦川を渡り対岸側へ。本日のスタート地点である細越峠からここまで一貫して下り坂でしたが、この場所を最低地点として塞ノ神峠まで登りに転じます。
田麦川を見下ろす。ここから少し下流に進んだ所にダム湖でるあさひ月山湖があり、そこで梵字川と合流、途中で大鳥川と合流して赤川と名を変えて庄内平野を貫き、日本海に注いでいる。
舗装路を歩いているとスクールバスが通り過ぎて行きました。過疎化が深刻な山間の集落において子供は宝でしょう。
六十里越街道のコースは途中で脇道っぽい道に入り、山の方へと登り詰めていきます。
途中で田麦俣集落を振り返る。集落は谷底近くという事で周囲の木々に埋もれており、先程の茅葺き屋根の古民家は屋根部分が僅かに見える程度。
もう少し見える所は無いかと、少し先に進んだ所から再び同方面。木々の合間から古民家が二棟並んでいる様子がなんとか見えました。
ここで自動車専用道路である月山道路を歩いて横断します。まだ朝早い時間帯であるが故に台数は少ないのですが、どの車も相応にスピード出しているので横断は慎重に……一応ルート通りなんですが、自動車専用道路なので当然横断歩道は無い。法律的に問題ないんだろうかと少し気になる所。
[7:41-7:46]柳清水
月山道路を渡った所には柳清水という水場があります。ビニールのホースから結構な水量で流れている。前日のいーっぱい清水で汲んだ水が結構残っていますが、こちらの方も澄んでそうだったので水筒の中身を何本か入れ替える。
柳清水から先程横断した月山道路を振り返る。すぐ先にはランプがあり、そこで高速道路である山形自動車道に接続している。
これまで概ねの所で歩きやすかった六十里越街道ですが、柳清水以降は一転して藪が濃くなります……つい先程まで雨が降っていたという事で全身ずぶ濡れに。たかだか1シーズンでここまで茂らないでしょうし、もう数年くらい整備されていないのでしょうか。幟はつい最近立てたかのような真新しさなんですが。
ネットの山行記録なんか見ると田麦俣より先の区間は殆ど歩かれてないので、整備の方もあまりやらなくなってしまっているのかも……少しばかり先行きが不安になりましたが、とりあえず先に進んでみる。
程なくして舗装路と合流しました。写真はその分岐点なんですが、藪が濃すぎてどこが分岐なのか一見しただけではよく分からない。
更に進むと舗装路は砂利道となり、その近くには棚田が広がっています。こちらの田んぼはきちんと手が入っているようで、黄金色の稲穂が収穫を待っている。
棚田の上部には農業用の溜池があります。普段から人が入るのはここまでのようで、此処から先は先程と同様の藪道となります。
整備されていないというよりは既に廃道と化しているような登り返し。旧街道というだけあって道筋はしっかりしてるので迷う事はありませんが、場所によっては藪が深くて結構歩きにくい。
[8:11]塞ノ神峠
登り返しの最上部が塞ノ神峠です。ちょっとした広場となっており、ここでも椅子用の丸太が幾つか並べられている。例によって蚊のコロニーとなっているので足早に通過しました。
湯殿山……と刻まれた古びた石碑が近くに立っていた。
塞ノ神峠から先の道も少し怪しげですが、こちら側は北斜面なので藪は比較的薄いです。
下り始めて程なくして林道と合流しました……気付けば遠くの空に青空が見え始めています。この日は一日雨を予想していたので嬉しい誤算。
林道とは言え砂利道。しかし靴が濡れずに済むので助かる。
麓が近付いてきた頃に舗装路となりました。以降、注連寺までの区間は舗装路歩きとなります。
塞ノ神峠から下って1つ目の集落である関谷の集落に入る手前に重郎右衛門清水という湧き水が……しかし柳清水で汲んだばかりなので立ち寄らず。
関谷の集落内の様子。大網という大字に属している集落としては最も東に位置している。
歩いてきた道を振り返った所。人気も車通りもない、時間が止まったかのように静かな集落でした。
舗装路を延々と歩いていく。この付近も過疎化が進行しているようで、雑草生い茂る休耕地のようなスペースが目立つ。
次に向かう大日坊がある大網の上村集落が近付いてきた所……ふと近くの木を見ると何やら木札が掛かっていました。急々如律令に天魔外道皆仏性と、調べてみると魔除けの呪文のようで、こうして符として記すのは修験道においてよく見られる形態だという。
言うまでもなく出羽三山信仰に関連したものでしょうが、どうしてこんな何の変哲もない道端に……と疑問に思いつつ少し進むと旧大日坊境内跡地という標識が視界に入りました。解説板によれば、これから向かう大日坊は元々この山裾に広がっていたものの、昭和初期に地すべりの被害があり、現在地である上村の集落内に移転したという。
大日坊境内跡地の入口も広場となっています。旧境内には皇檀の杉という県の天然記念物にも指定された巨木があるとの事なので、荷物を置いて内部の様子を覗きに行きました。
大日坊の旧境内の様子。移転前のものでしょう、広漠とした森の中には石碑が点在している。
石碑は沢山見つかるのですが、肝心の皇檀の杉が見当たりません……というか途中で地滑り防止工事をしていて先に進めなくなっていたので諦めて引き返しました
旧境内跡地から少し進んだ所にある大きな庚申塔。江戸中期の安永年間に建てられたもので、庚申塔としては日本一の大きさらしいです。
上村の集落の様子。これから向かう大日坊の伽藍も奥の方に見えています。
上村は大網の集落の中では比較的規模の大きい集落のようですが、バス停や公共施設といった集落の中枢となる施設は更に下った下村の方に集約されている。
道端にぽつんと貨車が置かれていました。こうしたタイプの有蓋車は日本の鉄道貨物輸送がコンテナ列車に転換した際に大量の余剰となり、その際に一般向けに販売されたという。現在でも地方を中心にこうのように倉庫等で利用されているのを見かけます。
大日坊→注連寺
[9:22-10:18]大日坊
大日坊の仁王門に到着しました。元々は先程巡った大日坊境内跡に建っていたもののようで、昭和初期の移転の際に現在の場所に移築したという。
大日坊仁王門は鎌倉時代の建築で国宝指定で有名な羽黒山五重塔よりも古く、山形県においては最古の建築物とされているようです。県有形文化財に指定されている……のですが、あまり保全活動が行われていないのか全体的に傷みが目立っており、茅葺屋根にも雑草が生えていました。
仁王門から本堂を見据える。昭和初期に移転してくる以前は一帯に田んぼが広がっているような場所だったらしいですが、まるで百年以上この地に存在したかのように周囲の景色と調和していました。
本堂下の石段から本堂を見上げた所。
大日坊の本堂に到着。正式には大日坊瀧水寺という寺院です。出羽三山との関連が深い寺院で、明治の神仏分離以前はこの後に向かう注連寺と同様に湯殿山の別当寺である湯殿山派四ヶ寺に属していました。また江戸時代には徳川家の祈願所として庇護され、家光の乳母である春日局によって大日如来尊像が寄進されたと伝わっています。
ちなみに、このお寺は即身仏がある事でも有名で、江戸時代の僧侶である真如海上人の即身仏が本堂に安置されているという。
到着時点では朝9時という早い時間帯でしたが拝観は可能との事だったので内部へ。その際にお祓いを行うのですが、拝観料に含まれているというので至極簡易的なものを想像していたのですが、途中から太鼓や銅鑼をジャンジャン叩き始めたりと結構本格的?なものでした。
拝観を終え、境内から先程通った仁王門を見下ろした所。細い参道の両側には田んぼが広がっている。車が直接乗り入れられる入口が別に設けられているので、こちらの参道はあまり歩かれていない様子。
境内に建つ幾つかの堂宇。これらも本堂と同様、昭和初期の移転後の建築との事でした。
大日坊から注連寺方面に向かいます。ここから先は暫く大網の集落内の道を進む事になり、偶に現れる案内板や幟に従って歩いていく。
田園地帯を進む。この付近は地すべり多発地帯……という事で傾斜を生かした棚田が多く見られる。
棚田は『大網の棚田』という名でちょっとした名所となっているらしく、解説板が設けられていました。月山の湧水で作られたお米……想像だけで美味しそうですね。
谷の方まで段々状に続く棚田の様子。既に稲穂が実っていますが、山間の冷涼地という事もあるのか、まだ少し収穫には早いかなという様子。
棚田の間の道を進んでいく。先に見える家並みはこれから向かう中村の集落。
川沿いまで下ってきた所。ここを最低地点として、十王峠までの区間は再び登り返しとなります。
集落内の道はかなり入り組んでいますが、六十里越街道のルートが分岐する場所には目立つ幟が立っているので迷う事は無い。
舗装路から山道に入った所。迷う事は無いであろう道ですが、やはりこの付近も草が繁茂気味。
少し登った所から振り返る。左に見えるのが先程通過した大網の棚田で、右側には月山道の延長線上にある山形自動車道の高架橋が見えます。
中村集落の中心部に建つ庚申塔と大網住吉神社。付近には六十里越街道の案内板が立っている。
中村の集落を離れ、山裾に沿って伸びている道を進んでいく。
歩いてきた道を振り返った所。旧街道というよりは農道のような印象を受ける。
木々の切れ目の所には先程立ち寄った大日坊が見えました……周囲に広がる棚田がいい感じ。
田んぼの中の道を歩いていく。この付近は分岐が多く若干コースが錯綜気味ですが、案内は豊富なのでスムーズに進めました。
山裾の道を暫く進んだ所が七五三掛の集落で、注連寺はその中心部にあります。七五三掛の集落は2009年に地すべりの被害を受けて全戸が避難。災害発生時から既に過疎化が進行していた地域という事もあって最終的には集団移転となり、集落としては離散する形となりました。
少し先に見える車庫はかつて集落が存在した頃のものでしょうか。現在は住んでいる人も居ない為か使われている様子もなく、注連寺と文字が続く右側2つが取り壊されています。
七五三掛の集落の様子。昭和初期頃の古地図を見ると十数軒の家屋が建ち並ぶそこそこ大きな集落だったようですが、末期には過疎化が進み6世帯26人が残るのみだったという。
注連寺のすぐ門前という所にはかつて民家や耕地でもあったかのような土台が多く残っていました。その下の方には現役で使われてそうな田んぼが広がっているのが見えます。集落が無くなった現在においても稲作に使用している方が居るのでしょう。
注連寺→イタヤ清水→十王峠
[11:07-11:33]注連寺
七五三掛の集落に位置する注連寺に到着。こちらは集落の中でも最上部の開けた立地にあるという事もあり、地すべりによる被害は免れられました。
注連寺の参道と、入った所にある月山の石碑。晴れている日はこの場所から月山が臨めるらしいですが、この日はこの雲の多さなので……。
注連寺の境内の様子。こちらも先に巡った大日坊と同様に湯殿山の別当寺四ヶ寺の一つで、修験道が盛んであった時代は月山や湯殿山の遥拝所として賑わっていました。
明治の神仏分離後は単一の寺院として独立したものの、湯殿山を始めとした出羽三山が神社に転換したという事もあって参拝客が急速に減少し衰退。以前からの伽藍の多くがその頃に消失し暫くは廃寺のような状態だったとされていますが、昭和期の芥川賞作家である森敦が滞在し、この地域を舞台にした小説『月山』が芥川賞を受賞した事でこの寺も脚光を浴び、それに伴って現在のように整備されたという。
注連寺の本堂……こちらの寺院も大日坊と同様に即身仏が保管されているらしいのですが、コロナ禍で拝観中止との事でした。なので外観を眺めるのみ。
注連寺の本堂を横から眺めてみる。奥行きがあり堂々とした造りです。
六十里越街道の注連寺から先の道は境内から伸びており、分かりやすく幟も立っています。
注連寺から十王峠まで続く道の入口の様子。ここもかつては注連寺の境内だったのか、石碑を始めとした遺構が多く残る。
入った所からは神社の参道のような道が続いてました。
神社の参道っぽい石段を登り切ったところ。コンクリートの土台のみが残り、割と最近まで社殿が建っていたような雰囲気がある。
路傍の石碑には花が手向けられていたような形跡が……時期的にお盆頃のものでしょうか。一帯の笹も綺麗に刈り払われていますし、定期的に人が訪れているようです。
神社の跡地から先の道の様子。やはり殆ど歩かれていないのか、塞ノ神峠の前後の区間と同様に藪が濃いです。雨が止んでからだいぶ経つので濡れずに済むのが幸い。
藪道を登りきった所。少し前まで田んぼでも広がっていたかのような開けたスペースがありますが、使われなくなったのか雑草が蔓延っている。
木々の合間から先程の休耕田の辺りを見下ろす。
十王峠までの山道の様子。鬱蒼とした区間は藪が茂ってないので歩きやすい。
[11:56-12:02]イタヤ清水
山道に入ってから程無くした所で水場であるイタヤ清水に到着。こちらも分かりやすく案内が設けられています。
イタヤ清水の様子。五地蔵と呼ばれている石碑の横から塩ビのパイプが伸びており、そこから滔々と湧水が流れ出していました……この場所が本日で最後の水場となるので少しだけ補充しておく。
水場から先は再び藪漕ぎムードの道に。この付近は斜度がある上に足元からも草が伸びていてかなり歩きにくかった。
舗装路を横断する箇所。本来のコースが未整備で歩きにくいので舗装路沿いに歩いてしまった方が楽そうではあるのですが、ここはやはりコース通り忠実に歩きたい所。
十王峠手前の薮道。中々にワイルドな道ですが区間は短い。
峠が見えてきた所。イタヤ峠からは近い所にあり、10分と掛かりませんでした。
十王峠→追分石→松根
[12:06-12:12]十王峠
十王峠に到着。六十里越街道においての最後の峠になり、ここから先は庄内平野まで下り一辺倒の道程となります。
十王峠からの展望。天気が良ければ月山方面の展望が臨めるのですが、この雲の厚さ。とは言え雨予報が外れてくれただけでも嬉しい。
舗装路が通されてしまっているので昔ながらの峠という雰囲気では無いのですが、近くには昔ながらのものと思われる地蔵が。
十王峠の様子。切り通しとなっている為か、風の通り道となっていて心地よい。
庄内平野方面に向かいます。ここから先は尾根道とトラバース路の二経路あり当初は尾根道の方を進もうと思ったのですが、それっぽい取り付きが見当たらない……仕方ないので入口の分かりやすかったトラバース路の方へ。
トラバース路の方も雑草がもさもさに生い茂っていて自然に還りかけている……真新しい幟とのギャップが凄い。
殆ど廃道同然のトラバース路の様子……左側の藪が道で、中央から右側にかけては崖となっています。歩きにくさは殆ど見た目通り。
トラバース路を抜けると開けた道となり一安心。
尾根道との合流点を過ぎて更に下っていると再び林道を跨ぐポイントが。
林道を跨いだ少し先の所で工事をやっているらしく、コース上にはロープが張られていました。
工事現場の様子。今まさに鉄塔でも建てているかのような雰囲気です。奥には最終目的地である庄内平野が見えていますが、まだ少し距離がある。
庄内平野の望遠。頭上には重々しい雲が漂っているものの、遠くには青空が広がっていました。
樹林帯の中の道を行く。標高が下がったという事もあってか、この付近は蚊の勢いが凄まじい。殆ど小走りで駆け抜けていく。
[12:54-13:02]追分石
追分石に到着。大滝山方面の道の分岐で、道標として利用されていた石が置かれている。
追分石以降の道の様子。相変わらず鬱蒼とした中の道ですが、以降は所々で道がコンクリートで舗装されている。
ボウフウの花に止まるヒョウモンチョウ。
殆ど平坦に近い緩い傾斜の下り坂が続く。
[13:22-13:46]山ノ神
地図上で山ノ神とあるポイントに到着。付近には展望台があるようで、道の一方がそちらへ続いています。
展望台からの眺め。標高は既に200m、殆ど麓に近い所まで下ってしまったので眺めは大した事ないですが、月山の山頂から遥か遠くに見えていた庄内平野がここまで近付いてきた所を見ると感慨深かった。
庄内平野の望遠。すぐ先には鶴岡の市街地が見えますが流石にそこまでは歩かず、途中からバスに乗る事になります。
山ノ神以降も緩い下り坂が続く。よく踏まれている雰囲気なので、麓の集落の方が散歩で訪れるのでしょう。
長く続いてきた尾根も終端部に差し掛かり、麓も目と鼻の先となった所。
少し進んだ所からの同方面。正面に見える家並みが六十里越街道の始点であり終点となる松根の集落です。
山道から降りてきた所。入口には道中あちこちで見かけた幟は無く、赤い紐が括り付けられているのみでした。
降りた所の風景。田園風景……というか雑草生い茂る休耕地が広がっている。
マーキングに従って田んぼの畦道のような所を進んでいくと、旧街道であった事を思い出させてくれるような大きな庚申塔が。
庚申塔から少し先に進むと、ようやく庄内平野の田園風景っぽいものが視界に広がりました。登山という観点においては一応は下山という事になるのでしょうか。
松根→弘法の渡し→下桂バス停
[14:11-14:15]松根八幡神社
六十里越街道の起点として紹介される事の多い松根の集落にある八幡神社に到着。長い下りで流石に足が堪えていますが、折角なので参道の石段を登ってみる。
松根八幡神社の社殿の様子。飾り気のない神社でした。
神社の参道から鳥居を見下ろした所。これにて六十里越街道は踏破(厳密に言えば笹小屋から山形盆地方面の区間もありますが)となりますが、バス停はこの集落を含めて付近には存在しないので、もう少し歩く必要がある。
松根の集落の様子。先に巡った田麦俣と同様にかつては六十里越街道の宿場町であり、出羽三山信仰の拠点として栄えていた集落とされています。
この松根は戦国時代の末期である慶長八年、当時出羽の地を治めていた最上義光の長男である義康が謀反を疑われて暗殺された地でもあり、集落内には義康を弔う為に建てられたと伝わる最上院がある。
バス停のある山添地区まで7kmの舗装路歩き。まだまだ長い道程なので途中の自販機で燃料補給。疲れている時は酸味の強いものを選んでしまいがち。
松根の集落の中心には六十里越街道松根宿と書かれた近辺の案内図がありました。
曇天でグレーな基調の中、付近の花壇に植えられたサルビアの燃えるような赤色が一際の存在感を放っていました。
うまい酒……という文字が気になる。そのまま歩いていくとやがて集落を抜けて視界が開けた。
一面田んぼが広がる風景。流石は全国屈指の穀倉地帯。
田んぼの中の農道を突き進んでいく。右奥の田んぼの脇の所には弘法の渡しと呼ばれる場所があり寄り道。
[14:57-15:03]弘法の渡し
弘法の渡しに到着。ここは目の前を流れる赤川の渡し場が設けられていたとされる場所で、かつて弘法大師がこの渡し場を利用して六十里越街道方面に向かったという。そうした伝説に肖ってか、この場所が六十里越街道の起点として紹介される事もあるようです。
弘法の渡しの周辺の様子。現在では小さな社が物寂しく建っているのみですが、つい最近まで樹齢400年という松がこの地に生えていたらしいです。
弘法の渡しから赤川の川沿いを下流に向かって歩いていく。先の最上院で弔われている最上義康はこの付近で暗殺されたらしく、田んぼの脇には庚申塔等と共に首塚が立っていた。
田んぼの中の道から再び家並みの中となった所が小在家の集落。こちらも松根と同様、古くからの農村といった雰囲気。
集落内を歩いていく。一面田んぼの広がる庄内平野ですが、こうした小規模な集落がぽつぽつと浮島のように点在している。
案内標識に鶴岡市街の文字が見えてきました。
赤川を越える橋を渡っていきます。赤川は有名な最上川と並ぶ庄内平野を代表する河川の一つとされており、川幅も相応に広い。
橋の上から西岸側の風景。ビルのような高さの巨大な農業倉庫が田んぼの中にぽつんと建っているのが見える。
赤川を渡った先の藤掛の集落。集落に入っては抜けてを何度も繰り返している。
集落を抜けて再び田んぼ道沿いの歩き。少し先に、これまでに比べて少し大きめの集落が見えてきた。
集落の中に入った所。字名としては上山添というらしく、平成の大合併まで存在した旧櫛引町の中心集落とされていたようです。
[15:53]下桂バス停到着
その上山添の集落の中にある下桂のバス停にてゴールとなります。六十里越街道そのものも長くてしんどい道程でしたが、最後の7kmの舗装路歩きが特に堪えた。
暫くして乗車予定のバスが入ってきました……本数が少ない路線の割には乗車率が高く、途中で立ち客が出る程に混雑していたのが印象的でした。
【移動】酒田にて宿泊
暫しバスに揺られて鶴岡駅に到着。ここで羽越本線の普通列車に乗り換えるのですが、なんと列車との接続が3分しかなく、しかもバスが若干遅れていたので実質は1~2分。その間に切符を買って改札を抜けて跨線橋を渡って……とした所で丁度ドアが開き、ギリギリの所で滑り込む。
ちなみにこの列車に乗れなかった場合、1時間待ちぼうけでした。
列車の車窓。次に登る予定の鳥海山が雲の中から徐々に姿を表しつつありました。
酒田駅に到着。1~2年に一度くらいは訪れている庄内地方においてのターミナル駅です。
酒田は北前船が寄港していた時代には庄内米の積出港として栄華を極めた都市で、鉄道が敷かれて以降は機関区が置かれる等して所謂鉄道の町として発展した。改札口の近くにはそうしたアピール目的の展示が幾つか。
酒田駅の様子。旧態依然としたコンクリートの駅舎ですが少し前にリニューアルしたようで、木目調のシックなデザインに改装されていました。
駅前の街並みと空の様子。終始重々しい雲に覆われていた一日でしたが、西側は雲がほぐれ青空が広がっていました。明日の天気は期待できそうです。
駅前より南側、予約してある宿を目指して歩いていく。酒田の中心街は駅から少し離れた所にあり、駅周辺は住宅街が広がっています。
こちらが今回の宿である白鳥荘……酒田に来た時は専ら駅前のアルファーワンが定宿なんですが、最近は古びた旅館に泊まるのが個人的なブームなのと、洗濯機の利用が無料という点に惹かれて今回はこちらの宿へ。
建物は一見するとモルタルっぽいですが、実際は前面だけが覆われただけの看板建築とという体を成しており、横から見ると年季の入った木目が続いている。中々期待できそうな宿です。
宿泊する一室。この簡素さが如何にも昔ながらの駅前旅館といった佇まいでいいですね。
この旅館の名物である看板猫。かなりフリーダムに館内を闊歩していて、部屋の扉を開けっ放しにしていると入ってくる事もあるとか……カメラを構えると目線とポーズくれました。慣れっこのようです。
お風呂と洗濯を済ませた後、食料の調達に一旦外出します……看板猫も見送りに出てきてくれました。
夜の帳が降りた酒田の町。メインストリート以外は街灯も少なく、暗闇に覆われている。
華やかな駅前通りにやってきました。コンビニ辺りで次の登山の食料補充ついでに夕食も調達……という腹積もりでしたが、せっかく魚の美味しい町に来たのにそれではつまらないなと思い直す。
一考した後、駅前にある大庄水産なる居酒屋が流行ってそうだったのでそちらで適当に……中で飲み食いしても良かったのですが、お酒は持参しているのでテイクアウトとしました。
白鳥荘に戻ってきました。真っ暗闇の中、行灯のみが白く映し出されている様子は幽玄とも言える。
夕食風景。魚も食べたいが肉系も欲しいという事で、コンビニでホットケースの中のものを適当に購入しました。
大庄水産では丼系のテイクアウトメニューが豊富だったのですが、魚は単体でお酒と合わせたいなと今回は刺身定食を選択。
前菜をビールと共に。麓近くで気温も高く喉が渇く一日でしたので、ロング缶が凄まじい勢いで身体に染み込んでいく。
そしてメインの刺身。ブリ、メバル、シメサバ、キンメ、サーモン、イカといったラインナップで、それにご飯がついて1000円と非常にリーズナブル……流石は日本海側屈指の漁港の町といった所。マグロが入ってないというのが潔くて良い。
刺身も最高だったのですが、なんといっても美味しかったのがこの何の変哲もない白ごはん。米を食べて驚嘆する事は中々ないのですが……米どころ庄内平野の底力が垣間見えたような気がします。
次回記事『鳥海山矢島口から長坂口その1』に続く