山とか酒とか

登山やお酒を始めとした趣味全般を雑多に、また個人的に有用だと思った情報を紹介しています。

氷ノ山方面登山その1(八鹿駅→日畑→名草神社→妙見峠→作山→猿尾滝→日影→兎和野高原)

氷ノ山に向けて歩き始めた初日の行程は但馬中央山脈の峠越えがメイン。

前日、日が沈んだ頃に八鹿駅を出発した後、キャンプ場での一泊を挟んで西へ進み妙見山を目指して歩きました。実質的な登山口となる日畑集落からはかつての妙見信仰における参詣道とされていた道を辿っていき、その先に建つ名草神社では重要文化財指定の三重塔や社殿を見物。

その後、妙見峠の峠越えに近付くにつれて次第に雪の量は増してきてペースも鈍化、予定していた妙見山への往復は省略してそのまま西側の作山集落に下りました。下山後は道すがら、日本の滝百選の選定を受けたとされる猿尾滝を見物。

山陰道沿いの日影集落、宿集落に合流した所で一旦下りきりましたが、その後は翌日の瀞川山、鉢伏山方面の登山に向けて登り返し。兎和野高原に到着した頃に雨脚が強くなってきた為、行動終了となりました。

3日目 若狭から西近江路の観光」の続きの記事となります。

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他の日程を見たい方は以下の記事よりリンクを辿って下さい。コース全体の軌跡もこちらに掲載しています。

【2022年4月】氷ノ山方面登山についての情報と記録 - 山とか酒とか

登山の以外の旅行の日程は以下に掲載していますので、山の記事を読み飽きた際はこちらもどうぞ。

【2022年4月】北近畿登山旅行 - 山とか酒とか

目次

今回歩いたルートです。

八鹿駅→つるぎが丘公園キャンプ場

[18:43]八鹿駅出発

長い登山の始まりとなる八鹿駅から出発します。以降は徒歩のみで鳥取県若桜駅まで抜ける事に……この地点で既に夜と言ってもよさそうな時分ですが、この日は宿泊地であるつるぎが丘公園キャンプ場まで、もう少しだけ移動します。

八鹿はこの但馬地方においては豊岡に次ぐ規模の交通の要衝で、駅前に立地する全但バスのバスターミナルには様々な行先を掲げたバスが並んでいます。これから向かう妙見山方面にも石原線という路線が存在するのですが、既に17時台の最終バスが行ってしまった後との事。始発のバスも8時台と遅いので結局は自力で歩くしかない。

本来の八鹿の市街地は円山川から分岐した八木川に沿って少し入り込んだ所に広がっていますが、市街地が拡大した現在は駅の方から延々と街続きとなっています。

八鹿は江戸時代には京から伸びてきた主要街道である山陰道の宿場町が置かれた地で、豊岡、城崎、出石を始めとした但馬国の主要都市を結ぶ街道が分岐する交通の要衝でした。また、付近を流れる円山川を利用した舟運も盛んであった事から、物資の集散地としての役割も兼ね備えていました。

明治期に入る頃には旧但馬国(現在の但馬地方)全体で製糸業が発展を始め、交通の要衝であり集散地でもあった八鹿の街は取引の拠点となり、生糸を取り合えう買う商家が増加。街にはその頃のものと思しき卯建を掲げた古い家屋も幾つか残っています。

街並みの途中には味噌の醸造所がありました……但馬地方では1軒しか存在しない味噌蔵らしいです。帰り道であればお土産に買っていた所なんですが、これから3日間担いでいく勇気は流石に無く、そもそも時間帯が遅くて開いていないという。

夜闇の中を駆け抜けていく山陰本線の列車。編成は2両と短く、通り過ぎた後は早々に静寂が広がる。

家並みは道沿いに密集して立ち並んでいるのですが、途中で場違いとも言える近代的な建物が……やぶ市民交流広場というコミュニティセンター的な施設で、繊維メーカーとして知られるグンゼの工場跡地の再開発で整備されたようです。敷地内にはかつての工場の一部である事務所棟が産業遺産として保存されています。

明治の始め頃には既に生糸の取引で栄えていた八鹿の街ですが、明治中期には町内に富岡製糸場と同様の方式の器械製糸場である八鹿製糸場が建設。これがグンゼ(当時は郡是製糸)八鹿工場の前身となり、平成中頃に工場が閉鎖されるまで操業を続けました。

[19:42]つるぎが丘公園キャンプ場到着

暗闇の中無心で歩き、宿泊予定のつるぎが丘公園キャンプ場に到着……丘というくらいなので山の中腹のような所にあります。意外に遠く、駅から1時間近く掛かった。

夕食は姫路駅で調達した駅弁のあなごめし……姫路の駅弁は何度も買ってますが、ここ数年はこればかり選んでいるお気に入りの駅弁。メインの穴子も柔らかくて美味しいですし、他のおかずも貧相ではないのでお酒を飲みながらでも寂しくないのが良い。

プラスアルファ的なつまみとなるのは、午前中に近江今津前回記事参照)で購入した佃煮です。内訳は鮎の稚魚である氷魚しじみの二種。氷魚は比較的あっさりとした味付けで、仄かに川魚らしい風味が感じられる素朴な味。逆にしじみの方は佃煮らしい佃煮で、濃厚な味わいで癖になる。酒飲みには必需とも言える一品。

つるぎが丘公園キャンプ場→椿色→日畑

[4:49]つるぎが丘公園キャンプ場出発

翌朝、未明の内に出発します。当初はこの日の内に瀞川山まで進む予定だったので若干早立ち……キャンプ場から麓に下り、八鹿高校の角に差し掛かった所で妙見山の案内を見つけたので、それに従って先に進んでいきます。

歩いていると徐々に空が明るくなり始めました。奥の雲が掛かった山が妙見山……ではないようです。方角も違いますし、何より近すぎる。

途中、九鹿という集落内に八鹿酒造なる酒蔵があります。実はこのコースを歩こうと決めて以来存在が気になっていた酒造で、恐らくは大都市圏の酒販店には殆ど卸していないであろう純然たる地酒蔵。タイミングが合えば寄ってみたかったのですが、流石にこの時間帯に開いているはずもなく……後ろ髪惹かれる思いで先へ。

小佐川沿いの小さな谷を歩いていく。

山と桜とやけに綺麗に整備された道路。八鹿の市街地と神鍋高原を結ぶ道という事で、それなりに幹線道路のようです。

先程から見えていた山の麓を貫くように通された北近畿豊岡自動車道の高架橋。

高速の高架を潜った先の風景。少し歩くと神鍋高原、豊岡方面の分岐があります。

交差点手前の桜の木。鮮やかな桃色が美しい。

更に進んだ所の石堂の集落内。昔は学校だったと思われる大きな建物が道沿いに現れる。看板にはコミュニティスポーツセンターとあるので、廃校となった後も継続的に使用されているのでしょう。

小さな集落内に残るレトロな縫製工場。但馬の繊維産業が盛んであった頃の生き証人的な建物。

中村の集落が近付いてきた頃、ようやく陽光が差し込んできました。長閑な雰囲気の集落には違いないですが、家並みも多く田畑も手入れされており、まだまだ賑やかな印象。

中村集落を越えると平地は途切れ、一転して狭隘な谷合の道という様相に変化する。

小さな橋を越えた先には棚田があり、小佐赤米の郷との看板が立っているのが見えます。実際に赤米(古代米)が栽培され、この土地の土産物等に使用されているとの事。

この小佐地区では古くから赤米を税として納めており、実際に平城宮跡の発掘調査で『但馬国養父郡老左郷(小佐郷、現在の小佐地区)赤米五斗、村長語部広麻呂、天平勝宝七歳五月』と記録が残る木簡が見つかったという。

[6:41]椿色集落

名草神社と共に妙見信仰の遺構である日光院名草神社と日光院の関係に関しては後程解説します)がある石原集落への分岐……というか、そちらの方面が道なりに続いていてメインのルートに見えます。

県道としてはこれから向かう日畑方面に伸びているのですが、一転して人家も途絶えて寂しい道になりました。道幅も車同士の離合が難しい程の狭さに。

日畑方面に歩いている途中、川の対岸に古びた石垣のようなものが垣間見えていました。古地図を確認してみてもこの付近に人家があったという記載は無く、かといって耕作地にしては狭すぎるし日当たりも悪い。

どうにも奇妙なので帰った後で調べてみると、この辺りには明治末期から大正頃にかけて妙見山から八鹿駅まで木材を輸送する『小佐谷弾丸列車軌道』という森林軌道が敷設されていたという話が……情報が少ないので確証は得られませんでしたが、確かに軌道の路盤のようにも見える。

周囲の山や木々が迫る薄暗い道。路面も荒れ気味で心許ない。

落石防止ネットの隅に地蔵が置かれており、その台座に『日畑谷遭難者碑』と刻まれています。車すら全く通らない現在からは想像も付きませんが、かつて妙見詣が盛んであった時期は徒歩での往来も多かったのでしょう。

日畑の集落の手前に広がる棚田か段々畑……こちらの石垣も古めかしい。一見すると現役の耕地のようにも見えますが、よく見ると雑草が完全に根付いており石垣も所々崩れています。使われなくなって数年という感じではないですね。

日畑→旧妙見参道→名草神社

[7:50-8:15]日畑集落

鬱蒼とした谷合の道から一転して開けた所が日畑集落です。名前の通り、日の光が差し込んでいて明るい印象の村でした。ざっと見た限り十数軒の家屋が建ち並んでいますが、現在は過疎化が進行し定住しているのは3~4軒との事。川向かいに広がる耕地も一部分が自給用の家庭菜園のように使用されているのみで、大々的に農業は行っていない様子でした。

集落内を進んでいくと、鎌を片手に雑草を抜いて回っているお爺さんに遭遇。マイナーコースなので登山者の姿そのものが少ない(記録も少ない)上、テント装備で延々歩いてくる人間というのは余程珍しかったようで、かなり驚かれた様子でした。その後は集落の案内をして貰いながら登山口近くまで暫し同行。

集落の上流部には名草神社や枝村である加瀬尾集落への分岐を示す指導標が立っていました。特に名草神社までの案内は三重塔の写真が入った立派なものでしたが、そちらの方に続くかつての参詣道は現在は集落の住人も含めて殆ど利用されていないとの事。

お爺さんの話によれば、平成の始め頃まではそれなりに往来があったそうで、集落の行事で登る事も多かったという。

日畑集落の全景。川沿いの少しだけ広くなった所に家屋と耕地が並んでいます。

お爺さんの後を追い川の上流へ。かつては魚も多く住んでいたらしいですが、河川工事によって川底がコンクリートで平坦に均されてしまって以降、殆ど見かけなくなったという。

色々と話を聞かせて頂いた日畑のお爺さんとはここでお別れ、かつての妙見参道の山道区間に入ります……未舗装となった後も暫くは車も入れそうな幅の道が続きますが。

程無くして山道らしい山道に。林業用のものか朽ちた作業小屋が建っていた。

沢を跨ぐ小さなコンクリート橋と名草神社を指す指導標。

登山道……というには道幅が広く、旧街道のような佇まいの旧妙見参道。現在のように道路が整備される以前は八鹿名草神社を結ぶメインのルートとされていました。

道に沿って電柱が立ち並んでいたのは、かつては道の先に集落(妙見集落)が存在していた事の名残でしょう。電線が張られていない所を見るに、現在は使われていない様子。

道幅は広く歩きやすいのですが、やはり現在は殆ど歩かれていないのか道の上には落ち葉が堆積し木の枝も散乱している。

尾根上に乗るまでは暫し九十九折の道が続きます。

尾根に乗って少し進んだ所で再び指導標を発見。登山地図では破線コースの扱いですが、全体的に歩きやすい道でした。

案内板の背後に何やら古びた石碑が。昔の道標のようで、『右おさたに(小佐谷)、左くわんおんじ(観音寺)、こくぶんじ(国分寺豊岡市日高町但馬国分寺を示す)』と書かれています。観音寺は日畑から山を一本挟んで北側の地名であり寺の名前ですが、昔はここから山道が分岐していたのでしょうか。

石碑から少し進んだ先に小屋が建っていました。それほど朽ちている様子はなく、内部には平成11年と書かれたプレートも置かれている。

キャンプ場から殆ど休み無しで歩き続けていたので、この辺で一旦休憩。

標高600mを越えた辺りから早くも残雪が出現。

ストレートな道筋と道端の石碑。故陸軍歩兵軍曹……と書かれているように戦没者碑のようですが、石の感じからしてそこまで古いものでもなさそう。

突如として木々が途切れて空が広がる。かつて名草神社門前町として栄えたとされる妙見集落に到着しました。

妙見集落の全景。江戸前期、現在の名草神社の前身となる帝釈寺(日光院)がこの地に移転した際に御師集落が形成された事がこの集落の発祥という。

雪を踏み抜きながら集落内を進む。集落内には数軒の家屋が残りますが、現在は定住者は居らず廃村の様相を呈しています。

とある廃屋の玄関口。少なからず朽ちてはいますが、平成辺りまでは人が住んでいたような雰囲気。

荒廃著しい廃屋と、公民館らしきコンクリート造りの頑強な建物の対比。

名草神社→妙見峠

[9:54-11:01]名草神社

妙見集落を抜けた先の広場から名草神社の参道が続いています。複数の重要文化財を擁する神社なので、この積雪期でも多少は人の姿はあるのでは……と期待したものの全く無し。暫く誰も来ていないのか踏み跡も皆無でした。

参道から臨む三重塔。道が雪に埋もれているのは事前情報で知っていましたが、全くのノートレースとは思わなかった。

鬱蒼とした杉林の中に忽然と現れる綺羅びやかな三重塔

こちらが重要文化財の指定を受けている室町時代建築の名草神社三重塔。その由緒は紆余曲折あり、元々は出雲大社(当時は杵築大社)に存在していた三重塔で、当時出雲国を治めていた尼子氏の寄進によるものでした。

その頃の出雲大社は中世以前から支配を続けていた尼子氏の寄進による仏教施設が多く存在する神仏習合の色が強い神社で、戦国時代に尼子氏が滅亡して江戸時代に入った後も暫くそうした状態が続いていました。しかし江戸前期に行われた再造営(寛文造営)に際して神仏分離が行われ、仏教施設は破却もしくは近隣の寺院へ移譲、この三重塔も取り壊される予定となりました。

一方、この名草神社から麓寄りの石原の地にあった帝釈寺日光院は戦国時代、織田信長と毛利氏との戦いの際に焼き討ちに遭い荒廃。その後、江戸前期の寛永年間に元々日光院の奥の院が置かれていたこの地(現在の名草神社が所在する地)に移転し復興。その際に塔の建立も予定していたのですが、出雲大社の寛文造営の際に木材(一帯で産出される杉材は妙見杉という銘木として知られる)を提供した事で、見返りとして取り壊し予定であった出雲大社の三重塔を譲り受け、遠く離れたこの地に移築となったのでした。

出雲平野から一転、標高800mの高地に移転してきた三重塔。見た目からも経緯からも明らかに寺院建築ですが『名草神社三重塔』として重要文化財に登録されています。神社の敷地内に寺院建築である三重塔が建っている……という形態は、元々建っていた神社である出雲大社を始め、神仏習合が行われていた神社では割とよく見られたりします。

しかし、実はこの神社(寺)はそういった神仏習合の神社や寺院とは事情が異なり、明治以前は帝釈寺日光院という寺院が単体で本居を構えていた地で、元々神社はありませんでした。つまり神仏習合という状態には無かったという事になります。

そうした状況が一変したのは明治に入った頃。神仏習合の慣習を廃止する神仏分離の政策を推し進めていた当時の明治政府から、妙見信仰という形態そのものに神仏習合色があると見做された事で『妙見社』という名の神社として分離。その後、当時の豊岡県による命令で現在の名草神社という名称に改められました。(名草神社という名称は平安時代の神社総覧である延喜式神名帳但馬国養父郡の式内社として記載されていた神社の名ですが、それ以降の記録は一切無く、延喜式神名帳の編纂以後間もなく廃れて断絶したものと考えられています。ちなみに旧名草神社の方も妙見山に存在したという記録はありません)

そして元々名草神社の地に座していた帝釈寺日光院は数年後、兵庫県から『帝釈寺は廃寺し、仏像仏器を除く動不動産の一切を名草神社に譲るように』との通達を受け下山。その後、江戸の寛永年間に行われた移転以前の本拠地として麓の石原集落に残されていた成就院と合併。仏像や経典といった類は移され、そちらの方が日光院と名乗るという現在の状態に至っています。

……と言ったような半ば強権的とも言えるような名草神社の成立の過程ですが、神社の立場としてはやはりあまり触れたくないのか、現地の案内板や自治体の観光案内には神社の由緒や成り立ち云々の解説が一切無かったりします(日光院という名前も出てこない)。

三重塔と同様に重要文化財の指定を受けている拝殿本殿は石段を登った先にあります……が、殆ど雪で埋もれていて歩きにくい。45度くらい斜度があるので一歩一歩蹴り込みながら進んでいく。

こちらが拝殿で、江戸前期の元禄年間の建築……つまり三重塔の移築が行われた少し後の頃のものとなります。昨年(2021年)に6年間続いていた解体修理工事が終わったばかりという事で新築同然とも言えるような様相でした。塗り直されたばかりの鮮やかな朱色が眩しい。

拝殿の形態としては建物の中央が通過できる割拝殿と呼ばれるものですが、元々は日光院の護摩として使用されていました。

こちらが本殿です。元々は帝釈寺日光院本殿(妙見社本殿)で江戸中期の宝暦年間の建築。拝殿と同様、こちらも昨年まで解体修理工事が行われていました。

境内の様子。全体的に1mくらいの積雪があり、本殿に近付くだけでも一苦労。

本殿と拝殿。人の気配もなく車の音も聞こえてこない、一帯は完全な静寂に包まれていました……しかし陽の光が注いでいて暖かく、なんとなく居心地が良い。

本殿の軒下から拝殿を臨む。雪の量が思ったより多く、この先に進むべきかどうか……階段に腰掛けて暫し悩んでいました。

本殿の精巧な彫刻群。こちらも綺麗に塗り直されている。

拝殿のから下った先、参道の脇に建つのは社務所。日光院であった時代は庫裏として使用されていたようです。こちらは重要文化財の指定は受けていませんが、拝殿と同様に江戸期元禄年間の建築……雪で埋もれており近付けず。

名草神社の見物を一通り終えた後は妙見峠方面に登る事になりますが、一体どこから登るのか……最初は本殿の辺りから取り付くものだと思って彷徨っていたのですが、改めて地図を確認してみると最初に回った三重塔の辺りに登山口がある事が判明。

現地に移動していると雪に埋もれつつもそれっぽい道が続いていました。言われなければ気付かないものの、言われればなんとなく分かる程度の道。

と思いきや、すぐに雪でルート消失。地図上では九十九折に道が続いているようですが、これだけ雪が積もっていたら一つ一つを辿るのは無理というもの。結局、そのまま直登していく事に。

雪は腐っていてズボズボですが、傾斜はそこまで急ではないのでどこでも歩けそうな感じ……という事で歩きやすそうな所を適当に選んで進んでいましたが、後々GPSのログを調べてみると割とコース通りに歩いていたようでした。

終盤はツリーホールだらけ。踏み抜かないようにコースを選びつつ慎重に登っていく。

妙見峠→作山→猿尾滝

[11:55-12:22]妙見峠

稜線上に登りきった所が妙見峠です……が、標識らしきものは埋もれているかで見当たりませんでした。GPSで場所を確認してひとまず安堵。

予定ではここに荷物を置いて妙見山へのピストンのつもりでしたが、踏み抜き地獄でタイムロスが嵩んだ上、以降の積雪状況も不安になってきたので残念ながらカット。登山ながら山(ピーク)に登らない一日となってしまいました。

何も景色が見えないまま下りに入るというのも気分が落ちますが、樹間から翌々日に登る氷ノ山の山体が見えたのでとりあえず満足しておきます。

殆ど稜線上を林道が経由していますが埋もれている……とは言え歩けない事は無さそう。これから進む作山集落への下山コースが通行不能であった場合、この林道を経由して耀山集落に下山する予定でした。

作山集落方面に続く作山コースはこれまでのコースと比較しても特にマイナーで、経由した山行記録も非常に少ない(ヤマレコで年1~2件というレベル)。故に殆ど道が無いようなものと考えていましたが、先程の林道との分岐に指導標が立っており意外に歩かれてそうな雰囲気でした。標識の先も比較的分かりやすい道が続いている。

と思いきや、すぐに雪で埋もれてしまったので結局コースを無視して下っていく事に。

雪解けの境界、沢の源頭となった場所に古びた地蔵が立っていました。こちらのコースも日畑から続いていたものと同様に旧妙見参道の名が付けられており、妙見詣の際のアクセス路として利用されていました。

沢沿いの道を下っていきます。雪解け間もない時期だからか、それとも元々こうなのか道は落ち葉や枝で荒れ気味。とは言え赤テープが豊富なので進むべき道は判別しやすい。

再び現れた指導標に安堵。以降の区間は沢を高巻きしている箇所もあるので慎重に道を見定めながら進む。

道筋そのものは分かりやすいですが、脆い斜面のトラバースは少し怖い。

中途半端に雪の残るトラバース箇所。全面が雪に覆われているよりも嫌な感じですが斜度はそこまででもない。爪先を蹴り込んで足場を作りながら通過。

沢の高巻きから谷底を見下ろす。沢沿いを直に下っていくのは無理そうなので、コースを判別できなかったら妙見峠までリターンする羽目になっていたかも知れません。

再び現れた地蔵。長年の風雪によるものか、上の方が割れてしまい無残な状態。

林道との合流地点を目前とした頃に現れた指導標。殆ど記録にないコースなので戦々恐々としていましたが、意外に道が分かりやすく、沢の源頭手前のコース消失地帯以降は全く道筋を外れませんでした。

[13:41-13:50]作山登山口

少し時間が掛かってしまったものの無事に林道と合流。雪も暫く無さそうなのでアイゼンも外す。

一転して緊張感の無い林道歩きとなります。気楽に歩いていく。

道なりに進んでいくと作山の集落に入り、幾つかの家屋が見えてきました。

[14:15]作山集落

作山集落の様子。こちらも鄙びた山村といった風情ですが、登りで経由した日畑集落よりは人気が感じられます。指定曜日運行とは言え路線バスもあるらしい。

沢沿いに続く長閑な村。登山地図には西側の山を越えて黒田集落に抜ける道が記載されており、予定ではそちらに進むつもりだったのですが見つからず……兎和野高原に登り返す事を考えると少し遠回りになりますが、道なりに猿尾滝から日影集落方面に進んでいく事に。

集落から下流の方に進むと耕地が広がっています。現在も使用されているようで、実際に何らかの作業をしている人の姿も見掛けました。

残念ながら未踏に終わってしまった妙見山を畑越しに見据える。

それまで広々としていたのですが、下流に進んでいくと急に谷が迫ってきた。

猿尾滝→日影→宿→兎和野高原

[14:52-15:17]猿尾滝

作山の集落から30分、日本の滝百選にも選定されているという猿尾滝の入口に到着しました。入口からも滝の流れが見えますが、遊歩道が滝壺の方まで続いている様子……せっかくなので寄り道してみる事に。

滝を臨める展望台は上段と下段の二箇所設けられており、こちらは下段から見上げた所。猿尾滝の名称はそのまま、景観が猿の尾に似ている事から由来しているらしいです。

猿尾滝旧妙見参道沿いに立地している事から、妙見詣の際に眺められる滝として古くから知られていました。江戸時代に入ると当地を支配していた村岡藩の藩主である山名氏は風光明媚なこの地を度々訪れ、夏にはこの滝の水の流れを使用してそうめん流しを行っていたという伝説があるようです……現在ではそうした素麺伝説に因み、年一度この場所でそうめん流しのイベントが行われるという。

下段の展望台から少し近付いてみた所。滝の中に石仏のような石が並んでいるように見えるなーとか思っていたら、実際に『石仏のような石が見える滝』として観光案内等で紹介されているようです。自分一人が思いつくような事は、誰しもが既に思いついた事でもある。

滝壺から上段を見上げた所。猿の尾と言われても、一番よく見かけるニホンザルの尻尾が短いのでいまいちピンとこない。

上段の展望台に移動しました。雪解けの季節だからか水量が豊富で、不用意に近付くと飛沫を浴びる羽目になります。

ミストシャワーのような飛沫に耐えつつ、急で撮影した上段の写真。丁度日が差し込み、滝壺には小さな虹が掛かっていました。

滝の入口にある駐車場と観光案内所。オフシーズンなのか車は一台と停まっておらず、人の姿もありませんでした……滝見物を終えた後は道なりに日影集落方面へ進んでいく。

猿尾滝から少し進み視界が開けた所。この付近で地元の小学生と思われる子供に突然「旅人ですか?」と楽しげに訊ねられる。テントの括り付けられた巨大なザックを苦しみながら担いでいる様子を見て、日本一周でも目指している人にでも見えたのでしょうか。

咄嗟の事で返答に窮してしまったものの、まあ『旅人』には違いないかと別段否定はせず、山を越えつつ鳥取県を目指していると伝えると、「頑張って下さーい!」との激励。田舎の子供は元気であり無邪気だ。

道端にあった石碑と朽ちた石仏。中央の並びの右側の石には左右と書かれているので昔の道標のようですが、他は読み取れませんでした。

[15:39]日影集落

更に西に進むと、江戸時代には京から但馬、山陰方面を結んでいた山陰道沿いの日影集落に入ります。旧街道らしい風情の街並みで、但馬地方に多いとされる卯建を持つ民家も幾つか残っていました。

[15:47]宿集落

南下して宿口のバス停から湯舟川を渡った先が宿集落。ここから兎和野高原方面に再び登り返しとなります。

山の中腹、木々の切れ目から先程歩いた街道沿いの日影集落を見下ろす。既に随分と下の方に見える。

瀞川山の登山口となる兎和野高原まで舗装路が続いていますが、車道という事もあってかなり大回りしています。

そこで先程の宿集落を歩いた際、住人の方から車道が整備される前の古い歩道を教えて貰ったのですが……確かに道らしきものは続いていますが、年単位で歩かれていないのか竹藪に飲み込まれています。流石に無理なので車道を進んでいく事に。

一際開けた所に出ました。周辺は瀞川平という恐らくは地滑りによって形成された傾斜の緩い斜面が広がっており、棚田や高原野菜栽培の段々畑で占められています。

畑の中を縫うように進んでいくと瀞川山方面の山々の稜線が見えてきました。途中には圃場整備記念碑という文字が刻まれた石碑が……今でこそ開けていますが、開墾されるまでは奥に見える山の方と同様に森が広がっていたのでしょう。

田植えを待つ水田の横を歩いていく。

九十九折になった箇所から見下ろした所……瀞川平兎和野高原は戦前の時点で既に景勝地として知られており、昭和初期に選定された日本百景では兎和野原という名称で登録されていました。

[17:13]兎和野高原到着

兎和野高原の散策路の入口は幾つか存在しますが、その内の一つである兎和野の大カツラ最寄りの入口に到着。直後、雨が降ってきたので本日はこの辺で……としたい所ですが、翌日分の水を汲む為に先へ進む。

兎和野の大カツラの入口です。遊歩道らしく幅の広い道が続いていますが少し荒れ気味。雪解けから大して日数が経っていないのでしょう。

兎和野の大カツラ手前の木橋。翌日はこの先の分岐から木の殿堂方面に続く遊歩道を経由して十石山、瀞川山方面に登ります。

兎和野の大カツラに到着。木の根本から盛大に水が湧き出しており、それが沢となって下流の方へ続いています。試しに手で掬って飲んでみると何ともピュアな感じの味わい。濾過しなくても良さそうな感じだったのでボトルに直汲みしました。

水の補給を済ませた後はテントを設営して夕食タイムです。おなじみのアルファ米定食ですが、ワンプレートに盛った二種の佃煮とチーズかまぼこ、大豆原料の唐揚げのおつまみセットが充足感を満たしてくれる。日本酒も三種と贅沢極まりない。

さて、お酒を飲みながら一人反省会へ。この日は兎和野高原にて行動終了となりましたが……予定では瀞川山まで辿り着いているつもりでした。しかし妙見峠前後の腐った雪に阻まれて盛大にタイムロス、翌日以降もこのツボ足地獄が続くと考えると挽回は厳しいでしょう。

全体の予定としては当初は氷ノ山から降らずに扇ノ山まで足を伸ばすつもりだったのですが、この雪の状態では難しいだろうとこの時点で早々に断念。実際コースである氷ノ山から若桜方面の下山の行程を急遽立てたのでした。

次回記事『氷ノ山方面登山その2』に続く

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